主催: 株式会社一休協賛: ホテルオークラ神戸


優秀作品その6
大阪府在住 ゆうちゃんの思い出

「はい、パッチンの黒いお靴を履いて」

そのころ、私達の家族にとって神戸はおめかしして出かける特別な場所でした。最近、めっきり聞かなくなった言葉「よそゆき」、神戸はまさしく、よそ行きが似合う町だと誰もが思っていたのだと思います。

ある日、父の友人宅に招かれた私達家族は朝早くから身支度に余念がありません。私は、グレーのワンピースにレースのひらひらが飾りについたソックスをはいて、足の甲でストラップをとめるエナメル靴です。

その日は、父と母の結婚記念日に、中国人の夫妻が中華服をプレゼントしてくれるというのです。父の友人は、当時中華同文学校で教鞭をとっており奥様は中華服のお仕立てをしていらっしゃいました。まだ小学生2年生だった私は、初めて触れる異国情緒にすっかり魅了されてしまいました。飾り棚に飾られた、色鮮やかな食器類、細部にまで細工が施された工芸品。どれ一つとして、我が家にあるものではないのです。触ることもできずに、じっと近くで眺めている私に、「どうぞ、手にとって見てね」と奥様が、優しく声をかけてくださったことでなぜか泣きそうになった記憶があります。仮縫い中、朱色に銀色の鳳凰の柄の中華服を着た母は、とても幸せそうに見えました。

仮縫いがすんだ後、以前から約束をしていた「ブレザー」を買ってもらうため、三宮のトアロードに向かいました。途中、エナメルの靴のかかとが靴ずれてとっても痛くなったので、母の小さなハンカチをかかとに押し込んでもらいました。トアロードには、そのころ関西で一番大きなファミリアのお店があり、ショーウィンドーには天井まで届くスヌーピーが、小さいスヌーピーと一緒にディスプレイされています。私と妹のお目当ては、いつもそのスヌーピーとスヌーピーの着せ替えのお洋服です。

昨年、我が家はある事情で引越しをしました。古い家の荷物を整理していたら、母が急に大きな声を出しました。『可愛い!』
そこには、あの日神戸で買ってもらった小さなブレザーとスヌーピーの着せ替えのお洋服が綺麗にたたんでありました。 私は紺色、妹は赤色。。。あのときの靴ずれの痛みが、かすかにかかとに感じたような。ヒリヒリと感傷的な瞬間でした。

神戸は私に、おしゃれすることを教えてくれた街。そして、幸せな家族の思い出の街なのです。



優秀作品その5
静岡県在住 匿名希望さんの思い出

「神戸からもう一度」

2002年6月17日、その日の神戸は熱く沸騰していた。5月に始まった日韓ワールドカップは決勝トーナメント1回戦に突入していた。目の前のピッチでは世界のスーパースターたちが躍動し、スタジアムは超満員のファンを飲み込んで興奮の坩堝と化していた。私たちのいるスタンドにはすでにベスト8を決めているイングランド代表主将のベッカムも観戦に来ていた。次に自分たちが激突するであろうブラジルの戦いぶりを前もって偵察しておくためのようだが、一部の観客がそれを見つけて騒いでいる。めまいがおきそうな位の興奮にスタンド全体が包まれていた。夢か現実か区別がつかないような状況だった。  

ちょうどその年の3月に勤務していた会社が破綻し、その処理に追われ続けて、私は精神的に追い込まれていた。人目を気にして地元の居酒屋で一杯飲る機会もめっきり減っていた。なんとか週末に単身赴任先から帰宅して家族と団欒を過ごすことができたのがせめてもの救いだった。2人の子供たちは地元のサッカー少年団に入っていて、私自身もしばしば試合の審判に駆り出されては一緒になってボールを追いかけていた。ほんのひとときではあったが苦しい毎日を忘れさせてくれた。家内もまたサッカーが好きで、毎日ワールドカップのチケットの獲得に努力していた。そんな家族4人の共通点、それがサッカーだった。

前日はユニバーサル・スタジオ・ジャパン™で大いに遊び、家内が苦労して確保してくれたチケットで神戸ウイングスタジアムに向かったのは当日の昼過ぎだった。スタジアムが近づくにつれて、ブラジルもしくはベルギーの応援に向かう人たちが増えてきた。街のそこここで、サンバの軽快なリズムが鳴り響き、熱狂的なファンの一団が原色使いの派手な仮装で踊りまくっていた。私たちも日本代表ブルーの応援スタイルではあったが、次第に気持ちが盛り上がっていった。試合はリバウド、ロナウドのGOALなどでブラジルがベルギーを破った。ロベルト=カルロスや若きロナウジーニョのプレーも観戦できた。おいしい神戸牛のステーキも奮発した、きれいな神戸の夜景も堪能できた。家族4人大満足!とても楽しい旅行だった。

その後、一緒にやってきた部下たちとも最後の別れを告げ、24年間勤めた会社を退職した。皆無念の涙だった。私は紆余曲折を経てなんとか現在の会社に再就職し、新たなやりがいも見つけることができた。部下たちもそれぞれ新しい道に進み、今でも時々元気に連絡をくれる。家内は2年間スクール通いをして保母の資格を取得して若いころからの夢を実現させ、毎日楽しくやっている。2人の子供たちはそれぞれ高校・中学へ進学し、それぞれサッカーに取り組んでいる。家族4人で一緒に楽しく暮らせるということは、当時の混乱ぶりからすれば、誠にありがたいことである。振り返ってみれば、あの神戸旅行は、失業の危機で危うく切れそうになりかけた家族の絆を、もう一度確かめ合えた時間だったのかもしれない。

2006年、ドイツでワールドカップが開催された。この時期が来ると楽しかった神戸旅行のいろいろな思い出が、ほろ苦さと同時にしみじみと記憶の中によみがえってくる。


優秀作品その4
東京都在住 naomiさんの思い出

「神戸名物」

神戸に育った。22歳で結婚して東京で暮らすようになったが、それまでの22年間は数少ない旅行中を除けばほとんど「神戸市内」で暮らしていた。あの頃は、大人も子供も狭い世界で日常が過ぎて行くのがごく普通だったように感じる。異人館なるものが北野あたりにあることを知ったのは大学に入ってからだし、元町・三宮でのショッピングはしても中華街に行ったことはなかった。つつましやかに暮らしていた両親は仕事と家庭の中で一日が終わり、ネットもないあの時代は娯楽の情報も積極的に動かないと手に入らなかったのかもしれない。

「神戸牛」。これだって始めた食べたのは大学の3年生だ。部活仲間だった男友達が「せっかく神戸にいるのだから一度おいしい神戸ステーキが食べたい。でも、人におごるほど、俺、お金ないし、かといって一人で食べに行くのもいやだから、お前、つきあってくれないか?割り勘で。」と私を誘った。残念ながら?下心は全く感じられない。純粋に「おいしい高級神戸牛ステーキが食べたい」という申し出だった。
私は快諾した。私だって「おいしい神戸牛ステーキ」とやらを食べてみたい。幸い、アルバイトでおこづかいもある。トアロードに面して店を構える老舗のステーキハウスに二人で行った。レンガ作りの外壁に重々しい木のドア。ちょっと気後れしながらその重いドアを押す。中は比較的こじんまりとしていて、鉄板のカウンター席とボックスのテーブルが三つほど。私たちはカウンター席に座った。目の前でコックがステーキを焼いてくれる。まずは豆腐を一切れ。背伸びしてグラスでワインも頼んだ。フランベされながらサーロインが供される。カリカリに焼いた脂身さえもがおいしい。当時でアルバイトの時給26時間分を支払った。

身分不相応な贅沢だったが、私は嬉しかったし、なんだか得意だった。良い気分だった。なによりおいしかった。そんなおいしい牛肉は食べたことがなかった。しかし、早寝の両親が早々と寝静まった自宅に帰りつき、「やれやれ」と畳に腰をおろしたとたん、私はいいようのない罪悪感に襲われた。しんとした家の中で、「親さえも食べたことのない」高級な神戸牛を「学生の分際で私だけが食べた」ことが悲しくなった。

それから3年ほど過ぎただろうか。両親が手土産を提げて当時私たちが新居を構えていた狭い社宅に遊びに来てくれた。おみやげはM商店の神戸牛。わざわざ、当日の朝に元町に寄り、「こんなおいしい肉はここでもめったに入りませんよ」とお店の人が薦めてくれた肉を買ってきたという。小さな家庭用のホットプレートで焼いて食べた。4人座ればもう一杯の小さなテーブルだった。おいしかった。本当においしかった。結婚以来、節約の新婚生活で長い間「普通の牛肉」さえ食べていなかったのが、超最高級の神戸牛。「こんなおいしいお肉、食べたことない!」と大喜びの私に、両親もニコニコ顔で答えた。「そういえば、神戸に住んで50年になるけど、私たちもM商店で牛肉買ったなんて初めてですよねえ、ねえ、おとうさん。」

神戸の町に生まれ、育ち、50年暮らしていても「神戸牛」とは無縁。それでも遠くへお嫁に行った娘には「その日一番」の最高のお肉を携えて訪ねてきてくれる・・・。もうすぐ母親になる私だった。一人で大きくなったがごとくに思っていた私だった。そんな私だったが、その日の手土産は嬉しくて悲しくて、「親」なるものが何者なのか、深く心に沁みるワンシーンとなった。

その日からでさえ、もう25年の月日が流れた。私の実家は今も神戸にある。阪神大震災で少し基礎が傾いたが、幸いにして修理してまだ住むことができる。あの時生まれた娘さえ、当時の私の年齢を追い越してしまった。神戸の街は変わらないようで変わり、変わったようで変わらない。M商店もあの老舗のステーキハウスもまだ神戸で健在だ。神戸名物でありながら、縁のなかった「神戸牛」。しかし、私の思い出の中で「神戸牛」は特別な味のする特別な意味を持つ神戸名物なのだ。



優秀作品その3
兵庫県在住 消しゴム屋さんの思い出

「母と神戸とシャンパンと」

78歳の誕生日を迎える母に「お誕生日のお祝いに何かリクエストはある?」と尋ねた。温泉好きの母のこと、湯めぐりの旅でも希望するのだろう、と思っていたが、返って来たのは次のような思いがけない答え。

「お母さんね、この歳になるまで外でお酒を飲んだことがないの。夜遊びもしたことがない。だから、できれば夜景のキレイなバーでシャンパンなんて飲んでみたいな」
思えば昭和3年生まれの母は、昔は割烹着、今は洋エプロンをつけて、いつもいつも家の中でクルクルとよく働いた。炊き立てのご飯とお味噌汁の匂いが似合うひと、と娘である私は勝手に決め付けてしまい、母のささやかな希望にも全然気付かずにいた。娘の方は、やれ仕事上の付き合いだ、プライベートの息抜きだ、と飲み歩いてばかりだったのに。
悪いことをした、と思うと同時に、何が何でも母の希望を最良の形で叶えたいと考えた。「場所のリクエストはある?」と聞くと「神戸!」とのこと。神戸は、母が今は亡き父と出逢った場所、青春の思い出が詰まった大切な街なのだ。ちょっと切ない思いで「OK、じゃあ神戸にしよう」と私は頷いた。ネットでホテルを予約、コメント欄に簡単に宿泊日が母の誕生日であることを書いておいた。

そして、当日。チェックインして部屋に通された時、母が「ああ!」と声を上げる。テーブルにお花が飾られ、「お誕生日おめでとうございます」とカードが添えられていた。夜、予約していたホテル内の中国料理のお店に行ったら、コース料理の最後に、サプライズとして桃の形の蒸し饅頭が登場、スタッフの女性が「お誕生日、おめでとうございます。桃のお饅頭は中国では喜びの印なんですよ」と笑顔で話してくれた。母も私も大感激だった。

約束の「夜遊び」の時間。私はそのホテルの35階にあるバーラウンジに母を誘った。眼下に、宝石を散りばめたような神戸の街が広がる。「うわ〜」と母が声を上げたまま動かない。スタッフの男性は少し離れて、母が満足して案内を請うまで、黙って見守ってくれていた。見晴らしの良い窓際の席。母が懐かしげに窓の外に目をやって「あの通りをお父さんとよく歩いたのよ」と話す。色んな思い出が押し寄せて来たのか、母はちょっと黙り込んだ。その時、タイミングよくシャンパンが運ばれて来た。「お誕生日、と伺っております」と、男性スタッフはにこやかにグラスを置く。「おめでとうございます」と声をかけられて、母はニコニコと笑顔になる。ホテルの細やかな心遣いに、私は胸を打たれ、少し涙ぐみそうになった。

シャンパンの泡の弾ける音は、天使の拍手。そんな話を聞いたことがあった。母とシャンパンのグラスを合わせて「乾杯」をした時、神戸に、この場所に、天使が集まって優しく拍手してくれているように感じた。



優秀作品その2
神奈川県在住 まゆさんの思い出

車を走らせて8時間、憧れの神戸にようやくたどり着いた。付き合い出して間もない2人にとって初めての旅行。お互いに魅かれあっているのに天邪鬼で素直になれず、なかなか打ち解けられなかった2人は、思い切って神戸旅行を計画したのだった。きっとたのしい旅行になると思った。きっとたのしい旅行にしようと思った。

異人館、中華街、ポートタワー。深まる秋の神戸の街を満喫した。穏やかな海を渡るさわやかな風。異国情緒に溢れ、洗練された雰囲気の中で、それまで知らなかった相手の一面を垣間見た。せっかちな彼とのんびり屋の私。計画的で用意周到な彼と行き当たりばったりの私。オレンジ色の夕暮れが好きな彼と澄み切った青空が好きな私。何もかも違う2人。でも、笑うタイミングは同じ。2人の距離は確実に縮まっていった。

ひととおりの散策を終えて歩き疲れたし、すっかり陽も落ちた。ケーキの箱を抱えた2人は、先にチェックインを済ませておいたホテルの部屋に戻る。真っ暗な部屋。敢えて明かりを付けずに窓際へ。期待に胸を膨らませてカーテンを開けると、高階層の大きな窓から飛び込んできたのは目映い夜景。あまりの美しさに思わず息をのんだ。壮大な宝石箱を覗き込むよう。

眼下に広がる神戸の街。静かな街の光はやわらかく、そしてあたたかい。海側に目を向けると、メリケンパークの観覧車がとても眩しい。すっかり見とれてしまい言葉を失った私は、その場所から動けないでいた。どれくらい立ちつくしていたのだろう。しばらく静かな時間が流れてから、後ろに彼の気配を感じた。次の瞬間、私の胸元にはネックレスが揺れていた。泣き虫な私に、涙のかたちのダイヤモンド。ジュエリーデザイナーを夢見る彼が2か月もかけて作ってくれていたなんて。そのダイヤモンドは夜景に負けないくらい、私には眩しく輝いて見えた。ありがとう、どういたしまして、と言いながら身を寄せ合う2人を、神戸の夜は優しく包んでくれていた。

あれから季節を重ね、たくさんの喜びを分かち合い、大きな悲しみも乗り越えてきた。何度となくケンカもした。けれど、その度に私たちを救ってくれたのは、あの神戸の夜。事ある毎に神戸旅行の思い出話に花を咲かせる。同じ話を飽きもせずによくするわよね、と言っては笑いあう。私たちの大切な大切な思い出の場所、神戸。私たちは再び神戸を目指し車を走らせる。今度はどんな素敵な夢を見せてくれるのかしら。行く度に違う表情を見せる街を、いつまでも変わらない2人で。


優秀作品
東京都在住 タラコさんの思い出

20年前、小学校2年生だった私は市の職員のスケさんらに連れられて六甲山での2泊3日のキャンプに参加した。スケさんは、初めて親元を離れて野外活動する子どもたちを、大きなメガネの下から見せる柔和な笑顔で安心させてくれた。

以来、私はこのお兄さんのことが大好きになり、学校帰りに仕事中のスケさんと遊んでもらうことを目当てに、何の約束もなく彼の職場を訪れることが私の日課となった。

スケさんは周囲の人の視線をよそに、私と勝ったり負けたりの将棋を指してくれた。私の手に対して「おー!タラコ!そんな手があったか」などと大げさに感動し、私が勝った時にはジュースをおごってくれた。次の1手の長考も、どのジュースにするかの長考も、スケさんは気長に待ってくれていたことをよく覚えている。

私はその後すぐに東京に引っ越した。私はまめにスケさんに手紙を書き、そしてスケさんは必ず返事をくれた。当時、私は作文をまともに書くことができず、一時は学校の先生や親に心配されたが、このスケさんとの文通を通して私は人並みに文章が書けるようになった。スケさんには感謝している。

そんな文通も中学校に上がるまで。以来、私はずっと東京に暮らし、神戸には帰らなかった。スケさんとの連絡も途絶えた。

それから20年後の2005年、肌寒い春の日。私はふらっと一人で神戸に行き、自転車で街を走った。新神戸駅で自転車を組み立てメリケンパークへ。

かつて訪れたポートタワーや海洋博物館の近くにある震災メモリアルパークで震災の被害の一端を見た。そして、震災後に建設されたのであろうなぎさ公園を走りながら「もうこの街で会う人はいないのか」と少し寂しい気持ちになったとき、スケさんのことを思う。

電話ボックスを探し、イエローページで電話番号を探す。・・・あった。住所は変わっているが間違いなくこの名前だ。電話してみる。呼び出し音が鳴る間、私は20年前のキャンプ、一緒に指した将棋、東京から神戸を想いながら綴った手紙のことを考えていた。

昔と変わらない声でスケさんが電話に出る。
「スケさん、タラコです。いま神戸に来ています!」
数秒の沈黙の後、「おー!タラコか!よく来たなあ。どうした?今から会えるか?」という言葉でスケさんは私を迎えてくれた。

待ち合わせ場所へ自転車で急ぐ。胸が弾む。スケさんと遊んでもらうため彼の職場に向かうときの気持ちはこんな感じだった。そして私は、20年前に私と出会ったスケさんの年齢になっていた。


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