楓の家は南軽井沢の森の中にある。15年前、母を亡くし、相続した小さな別荘をリニューアルして夫と共に東京から移ってきた。 「緑の丘の赤い屋根、尖がり帽子の時計台」、時計こそ付いて無いが母がよく口ずさんでいた歌のように、赤い屋根の白い家、窓枠と鎧戸が緑のメルヘンチックな家であるが、 南軽井沢の乾いた空気と明るい緑の森によく似合った。

夫の俊彦はカメラマン、自然を相手に国内外を東奔西走、実入りもいいけど出費も多いという雑な生活に一息入れたくなっていた。 ファション誌の編集者をしていた楓も切れ目無く雑事が続く編集者家業に疲れていた。二人の思惑が一致して始めた森の生活は案外快適だった。 第一に経費が驚くほど掛からなかった。自給自足ではないが、ハーブ類は植えておけば必要なだけ採れ、肉にしろ野菜にしろ土地のものは安価だったし、 果物などは直接農家で分けてもらえた。人口密度が低いせいかたちまち小さなコミュニティができ、その中で十分暮らせた。移動に時間を取られないので一日が長く、ゆったり過ぎていく。 そして出費を覚悟すればおいしいもの、贅沢なものは何でもそろっていた。移り住んで何年しない内に高速道路が繋がり、新幹線が開通して東京まで1時間の距離になった。

会社を辞めた楓は元の雑誌に高原便りを書き始めた。好きな立原道三の詩にピッタリの風景や堀辰雄の原風景を紹介したり、室生犀星、石坂洋二郎、柴田練三郎、 遠藤周作や北杜夫といったかつて軽井沢の夏を彩った作家たちのエピソードを拾い集めたり、旬の食材を農家に取材したり、本業のファションから杏やラズベリィ、りんごを使ったジャム作りまで、 夫の写真をつけて手当たり次第に書き送った。最初は浦島太郎にならないため、小遣いのたしにと頼み込んだものだが、少しずつファンができ、一区切り付いたときには継続を求められた。 しばらくすると他誌からもエッセイの依頼が舞い込むようになり、スローライフのさきがけのような立場になった。本が立て続けに3冊出て、あれよという間に物書きとして自立してしまったのだ。 まだエッセイストなどとはおこがましい、ただの物書きだったが、軽井沢にあまたあるリゾートホテルからも講演を要請され、びっくりするような講演料が手渡された。



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思い出特派員