翌日、身体障害者届けを会社に提出。変化はすぐに現れた。まず車での通勤と会社の駐車場の無料使用が認められ、定期代の代わりにガソリン代の一部が支給される。医療費の補助額が少し引き上げられ、タクシーの利用も緩和された。
そしてラインから外れた彼女へライバルたちの無視が始まった。それは彼女が得た特権に対する当然の支払いのようだった。彼女に指示を仰いでいた後輩たちが彼女に指示をだすようにもなった。その代わりに掃除のおばさんや守衛さんの陰の気遣いと時々の小さな差し入れが届きだした。サポートしていた契約社員は毎日、彼女のためにお昼のお弁当を運んできた。身障者なのにポルシェできていいのかという苦情が総務に寄せられたとき、「障害者だからポルシェに乗ってるんだろうが、彼女は。その気概が分からんのか」という部長の一声で治まった。社長や役員が彼女の席に立ち寄って話していったり、他部の人に廊下や階段で声を掛けられる頻度が多くなった。
駐車場の前で出庫を待っていると向かいのスーパーのご主人がアルバムを持って現れ、車が出てくるまでの間、かつて乗っていたポルシェ964の写真を見せ、ポルシェの話をする。2、3日見かけないと心配して飛び出してくる。レストランや料理屋のオーナーにもポルシェファンが多く一度ポルシェ談議に花が咲くと「調子どう」が挨拶となった。彼女の地域社会はいっきに3倍になった。
仕事が終わると江ノ島まで走る。ドアを閉めエンジンをかける、爆裂音で何もきこえなくなる、エンジンに聞く、走りたい? そしてギアを入れる。景色が夜に沈んでヘッドランプで浮かび上がる闇だけを見つめ、運転することに集中する。高速に入ってスロットルを開くと低音のポルシェサウンドが炸裂し、100キロを越えると後部に格納されていたスタビライザーが競りあがって車体がいっそう地面に張り付く。タイヤが路面の状態を逐一伝えてくる。エクゾストル音と空気を裂くスピードが彼女をリラックスさせ、すべてを忘れさせ、今だけが残る。疾走することは生きている証、存在の証であった。
七里ヶ浜の駐車場の後ろのカフェで暗い海を見ながらコーヒーを飲む。規則正しく寄せてくる波も時折大きくなったり途切れたりするのが分かる。永遠の闇から今到達し消えていく波が、汝のなすべきことをなせ、という大いなる意志を伝えてくる。
死はいつも身近にあった。彼女の母も膠原病だった。彼女の出産をきっかけに発病し、もの心ついたときには重篤になっていた。入退院を繰り返す母、出張が多い父、ばあやさんやお手伝いと過ごす日々ゆえ、家にいるときに母は躾や立ち居振る舞いにきびしかった。
家にはいつでも入院できるよう病院生活の一式を詰めたトランクが用意されていた。救急車でトランクとともに運ばれていく母を彼女は何度も門口で見送った。そのたびに帰ってこないのではと脅えた。死はいつも隣にあった。
「嘘はつかない。悪いことはしてはいけない」、「一度いった言葉は戻らない」、「人を傷つけてはいけない」といわれた言葉が今も強く心に残っている。我がままをいってむずがる彼女に母はいった。「おかあさんを殺す気」。彼女は聞き分けのいい大人のように話す子どもだった。高校、大学は寄宿舎に入った。落ち着いた生活を母が望んだからだがここで初めて毎日が緊張感で張り詰めていない生活を知った。
だから彼女は知っている。苦しくても死にはしないことを。死は大いなる意思によることを。死は哀しみではなく救済であることを。
江ノ島に行って帰って2時間、それが日課のようになった。ガソリンを入れに行くたびにいったいどこを走り回っているのかと驚かれ、「毎日江ノ島に行く」と言っても信じてはもらえなかったが、964と走ることは必要だった。走ることで、今優先すべきこと、今なすべきことが自然と明らかになった。964は明日からの戦いのために心を休め、戦略を定めるための城になっていた。ポルシェ964はこれからも走り続けるだろう、明日に向かって、彼女が終わるまで。
(この物語はフィクションです)