彼はヨット仲間からマー坊と呼ばれていた。いつも目を細め、大きな体をゆすってハッ、ハッ、ハッァーと笑う破顔一笑の愛嬌者だったが、レースになると前へ、前へと強引に突き進すみ、体形そのままにエネルギシュで素早い決断力を見せた。このアンバランスが人をおもしろがらせたり、たじろがせたりした。マー坊の家は三代続いた医者だったが、彼は継がなかった。大学を出ると航空会社に就職し、地元湘南のヨットクラブに属してレースを続けた。
マー坊が愛したのは、ヨットとジャズと古い洋館だった。子供の頃通った祖父の家が大正時代に建てられた洋館だった。水平が強調された外観の平屋だったが居間だけが塔のように突き出た二階にあった。深い軒の薄暗い天井の低い玄関を入ってドアを開けるといきなり耀光にぶちあたる。前面ガラス戸の天井の高い広いサロンである。彼はここに入るといつも教会を思った。入ったところがホール、ホールの左にダイニング、右に大谷石で組まれたどっしりとした暖炉があり、暖炉に向かって白い麻のカバーで覆われたソファーがコの字に置かれていた。ガラス戸の向こうは戸外のテラス、芝生の庭へと開放されている。二階の居間は腰より上が四方ガラス戸で松林の間から光る海が見えた。夏はここで食事をしていた。クリスマスには燃える暖炉の前に寝転がってホールで踊る人たちをいつまでも見ていた。マー坊はこの家が大好きだ。祖父に連れられて行った鎌倉山観光ホテルや熱海ホテルの古い建物も大好きでよく覚えていた。
入社して研修期間が終わり、東京支店に配属された。部署の新入社員歓迎会の晩、上司に連れていかれた帝国ホテルのバーに入って驚いた。そこがよく知っているなじみのある空間のように感じたのだ。壁際のベンチに坐ってテーブルを囲みスコッチの水割りを飲んでいる間も、居心地がよく、ゆったりと時間が流れているように思えた。翌日、仕事が終わるとマー坊はすぐに帝国ホテルのオールド・インペリアル・バーに向かった。時間が早いせいかバーはすいていた。カウンターの隅に坐って内部を観察する、大谷石とタイルで飾られた壁、木の梁。ヨーロッパと違う重厚と簡素、静寂と温もり。似ている、まったく同じ所はないのに祖父の家と同じ雰囲気がある。むしょうになつかしかった。