
1992年3月某日、場所はNHKホール。その日僕は、みずからの存在を根底から揺さぶられるような経験をしました。
ジュゼッペ・シノーポリが指揮をしたウィーン・フィルによるシューベルトの交響曲『未完成』を聞き、音楽の本質は人生の本質と同じように言葉にはできないんだと、初めて理屈ではなく、
ありありと体験したんです。「感動した」とか「心が震えた」などという言葉では、とても言い表せないものでした。目の前で演奏されている音楽に、自分の体が確かに共鳴し、
音楽の躍動感につられて心がざわめき立つ。まるで自分の体が一つの楽器になったような気さえしました。体中が内側から響きだし、僕自身が鳴っている。そんな感覚でしたね。
「すばらしい!」と感じたのは、他の誰でもない僕自身の感情です。生の体験から生まれた自分自身の価値と言ってもいい。その体験は、今も僕の心の座標軸になっています。
生きるということは、大変なこと、ままならぬことの連続だけど、自分の中に座標軸があれば、「自分は自分」という強さを持てる。
「自分の中から光を発し続けていればいい」という域に、いつか達することができるはずだ。その光源たりえるものとして「音楽」があるという、そんな確信が、僕の中に生まれました。
今になって思うと、脳科学者として提唱している「クオリア」の問題意識につながる着想も、音楽体験と無縁ではありません。
それまで脳とはあくまでも「物理的・化学的な性質を持ったシステム」であり、脳の研究とはニューロン(神経細胞)の活動を「数理化すること」だと考えていました。
でも、数理や物理では表わすことのできない何かが確かにあります。音楽体験を通して、そういう実感を得たわけですね。
最近の脳科学の研究で、音楽を聴いて喜びを感じるときの回路は、生物として非常に基本的な回路だとわかってきました。食べたり飲んだりしたときに感じる、本能的な喜びの回路と共通なんです。
そのとき脳の中の「喜び」はドーパミンという物質を放出して、さまざまないい働きを脳の中に引き起こすことがわかっています。
脳の中では、一千億個ものニューロン同士の間で、常に物質が伝達されています。その状態は、多様なリズムのビートが絶え間なく発生しているようなもので、
常にシンフォニーのような現象が起きているんです。脳の働き自体が、そもそも音楽みたいなものだと思いますよ。
僕の場合、脳内がいい音楽で満ちているときは、泉のように発想が湧いてきます。だから、いかに自分の内側にうまく音楽を鳴り響かせるかに、ものすごく興味があるんですね。
鳴り響かせる音楽はクラシックでなくてもいいんです。僕自身、ジャズもポップスもロックも好きです。たぶん、いろいろな分野の音楽を内に持っている人のほうが、
人間としての幅が広がるんじゃないでしょうか。ただ、現代人はたいていポップスやロックは聴いているので、クラシックをもうちょっと聴くようにしたほうが、バランスがいいと思います。
クラシックは時を経るにつれて取捨選択をされて、本当にいいものが残っています。当時はろくでもない曲もたくさんあったはずです。
膨大な曲の中から、ふるいにかかって残ってきたものが、今、聴かれているわけです。だから、すごく質が高い。ポピュラーでも、ビートルズは今なお神話的な雰囲気を帯びているけれど、
それと同じことです。クラシックの作曲家は、自分の人生を賭けて作曲しています。音楽を聴くことで、その熱というかパッションを感じることができるんです。
野球選手のイチローのプレーのすごさは、多くの人が知っていますよね。本当のクラシックのすごさというのも、それと似ている。何の知識も先入観も持たずに体験しても、感動するし、
打ちのめされる。そういうものを聴かずに人生を送るのは、本当にもったいない。
クラシック音楽に対して、構える人もいますが、「とやかく言わないで、黙って聴いてみてよ」と思います。知識はいらない。
「クラシックのお勉強」なんてせずに、とにかく生の音楽に触れてほしいですね。世界観が変わると思います。
2008年ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭のアンバサダーを務める。
“ラ・フォル・ジュルネ”
「熱狂の日」音楽祭2008 「シューベルトとウィーン」
・東京国際フォーラム 5月2日(金)〜5月6日(火)
・丸の内・周辺エリア 4月29日(火)〜5月6日(火)
http://www.t-i-forum.co.jp/lfj
茂木健一郎(もぎけんいちろう)
1962年、東京生まれ。脳科学者。東京工業大学大学院連携教授、東京藝術大学非常勤講師。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学大学院物理学専攻課程修了。理学博士。
理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現在に至る。2005年、『脳と仮想』「で第4回小林秀雄賞を受賞。著書に『脳内現象』『脳の中の人生』『感動する脳』『脳を活かす勉強法』
『すべては音楽から生まれる』などがある
茂木健一郎 クオリア日記(ブログ) http://kenmogi.cocolog-nifty.com/





