| 西村 | 昨晩はいかがでしたか。 | ![]() ![]() ![]() |
| 渡辺 | 午前1時ぐらいに、祇園から帰ってきました。 | |
| 西村 | お早かったですね(笑)。朝食までにお帰りになったらいいって申しあげたって、帳場の者がいってましたが。 | |
| 渡辺 | 超一流旅館だから、午前1時に帰ってきて、入れてもらえるかなと心配していたら、実に気持ちよく迎えてもらいました。日本旅館の少しやっかいなのは、夜遅く帰ってきてはいけないんじゃないかって気になるけれど、嫌な顔はまったくしないで。 | |
| 西村 | 京都にいらした方は、祇園とか、先斗町とか、夜に遊びに出られるのが常です。 | |
| 渡辺 | ホテルのほうが気を遣わなくていいと思っていたら、本当に気持ちよく受け入れてくれて。 | |
| 西村 | 土地柄ですね。 | |
| 渡辺 | また、この部屋の係りの方かな。いつから柊家にいるのって聞いたら、7年でまだ見習いですって、答えが返ってきたのにはびっくりした。ここには、まだまだ古い人がいるんですね。 | |
| 西村 | それこそ一番古くいたのは、母の嫁入り前からいたヤエです。私が生まれる前からですから、何かあったら仕事内容とか店のことは、ヤエに聞いていました。今、97歳ですね。私が店に出始めた頃から、“いつすってんころりんって逝くかわからん”ていいながら、ずっと教えてもらっていました。母は嫁として来ましたから、聞いていないとか、聞く立場になかったとかいろいろいうんで、ヤエに聞くことが多かったです。 | |
| 渡辺 | じゃあ、ヤエさんは、戦前からいたのかな。 | |
| 西村 | そうですね。川端康成先生もずっとお世話させていただいて、先生の奥様と同い年なんです。 | |
| 渡辺 | すごいねぇ。 | |
| 西村 | それで、ずっとお親しくお話させていただいて、川端先生から、ヤエ自身のことを書かせてほしいっていわれたことがありました。でも、小説はいいことも悪いことも、どっちかというと悪口を書かれるのが多いからって断ったらしいですが、先生がノーベル賞を受けられて、「あの時、お受けしていたらと一生悔いが残って……」という話をヤエからよく聞いていたんです。ヤエが5年前に『おこしやす』という本を出させてもらって、ほっとしました。 |
| 渡辺 | 今、ヤエさんは。 | ![]() ![]() ![]() ![]() 西村明美 (にしむら あけみ)
1948年、京都府生まれ。ノートルダム女子大学英語英文学科卒業。「柊家」6代目女将。1988年、京都市観光大使 おこしやす京都委員会委員に就任。「みやこ女将の会」会長、「京都商工会議所女性会理事」「国際京都学協会理事」として地域貢献活動に尽力を続けている。 |
| 西村 | 病院におります。ヤエは今も朝一番に新聞を端から端まで目を通しているそうです。明治・大正生まれの人って、すごく強いですね、精神的にも肉体的にも。 | |
| 渡辺 | 気骨が張っていてね、ピンとしているところがある。ところで、ここに柊家が移ったのは? | |
| 西村 | 祖父の時の記録が出てきたのを見ると、戦争の時代に、朝起きると入り口にポンと張り紙がしてあって、「御池通りを広くすため5日の猶予で全部強制撤去になる」と。それで、祖父が四代続いたのに、自分の代でつぶすわけにいかないといろいろ奔走して、やっと一部の取り壊しで、柊家がここに残りました。 | |
| 渡辺 | 創業何年になりますか。 | |
| 西村 | 江戸末期、文政元年に先祖がここに来たんです。1818年に。189年になります。 | |
| 渡辺 | 旅館をその時に始めたんですか? | |
| 西村 | 当時、初代はキへ出てという思いで若狭から出て来たので、郷里の海産物を商っていました。2代目の刀のつばの作品が残っていますが、日本画を描いたりしながら、最終的に刀のつばを作るのに凝ってしまって、家業がおろそかになったらしいです。 | |
| 渡辺 | その時は家業は何をやっていたの? | |
| 西村 | 運送とか、海産物の商いです。 | |
| 渡辺 | それで旅館にしたのは何年ですか? | |
| 西村 | 2代目で旅館になったんです。1864年。昔は仕事で出てきて、夜遅くなって、「じゃあお泊まりやす」って、近所もずいぶん旅で来られた方をお泊めしていたらしいんです。 | |
| 渡辺 | その頃は、旅篭(はたご)というか泊る所はあったんだろうけど。 | |
| 西村 | 京都には、かなりの数があったんじゃないですか。 | |
| 渡辺 | そのまま、残ったのがすごい。 | |
| 西村 | まだ結構残っています。他にも俵屋さんがありますし、炭屋さんも。たまたまちょうどこの麩屋町通りに集まっていますが。 | |
| 渡辺 | この辺りは一流旅館が集まってるから。 | |
| 西村 | 京都のいいところはね、それぞれの家業を自分のこだわりを持ってやっていらっしゃって。炭屋さんは、お茶を。毎月、釜を掛けられ、文化的なところでやられています。うちは、昔からのたたずまいをできるだけ残すようにしているだけですけど、俵屋さんは、今の女将さんの亡くなられたご主人が写真家でして、芸術的なセンスで日本の伝統だけにかたよらずに、美の視点から変えていかれています。俵屋さんとうちはお向かい同士で、親しくさせていただいていますが、それぞれの館が、また違う趣です。 | |
| 渡辺 | この『一期一会』の対談で旅館も何軒かお願いしたけど、女将さんが先代の女将さんの娘さんというのは、柊家が初めてかと思うけど。 | |
| 西村 | あまりこれは声を大にしていうと……。 | |
| 渡辺 | どうして? | |
| 西村 | 出すぎず、入りすぎずというのが、京女といわれますんで。でも、今は会合やらでも、女性がいないと会が成り立たない時代ですね。京女の強さですが。(笑) | |
| 渡辺 | お母さんが女将さんをやっていたわけでしょ。あなたもいずれやると思っていたのですか? | |
| 西村 | 実は、住まいを祖父の時代に下鴨に移したんです。父を含め、親のきょうだいが門構えは違っても、全部同じ一画の敷地に住んでいました。私は、いとこも小さい時から兄弟のようにして育ったんです。たまたま父が長男だったんで、長男の長女ですから、最終的に私にこの役割が回ってきたわけです。 | |
| 渡辺 | 何人兄弟だったの? | |
| 西村 | 妹と2人です。いとこを含めて6、7人いました。祖父母は初孫が可愛いからって、いとこたちを可愛がっていましたしね。私と店との関わり合いは、アルバイトで来たり。まあ何となく、長男の長女だからとは思っていたんですけど、そんな感じでした。私がねずみ年、妹がとら年、妹は勝ち気です。私は妹の後ろを石橋をたたいて渡りながら、それでも妹の後をついて行くというか。 | |
| 渡辺 | あなたは控えめだったけど、継がさられた。 | |
| 西村 | そういう流れがあって、たどり着きました。 | |
| 渡辺 | 女将さんになる前に、お座敷とか接客をしたことがあるんですか。 | |
| 西村 | 家の場所が違うので。 | |
| 渡辺 | ちょっと手伝ったりもしていないの? | |
| 西村 | 私はスポーツが好きでしたから、一年中真っ黒に焼けてスポーツしたり、どちらかというと外に目が向いていましたね。 | |
| 渡辺 | それで正規に女将になったのは何年前ですか。 | |
| 西村 | 21年ほど前に少しずつ。一番下の子どもが小さかったんですが、私が店を出ることをきっかけに保育園に出して、その時からです。 | |
| 渡辺 | お子さんは何人? | |
| 西村 | 4人。 | |
| 渡辺 | 大変でしたね。女将さんもやらなきゃいけないし、4人の母親だし。 | |
| 西村 | 母も私が高校生ぐらいに、少しずつ店に出始めました。それこそヤエがいましたし、ヤエと一緒に花を生けたり、お客さんのことを教えてもらいながら。結局、ヤエが仕事を教えられる間に店に出てほしいといわれたものですから、下の子には可哀想なことをしました。 |
















