| 井上 | うちのおやじは鳥取で大工の棟梁をやっていまして、じいさんが宮大工をやっていた。僕が料理人になったのは、のみを洋ナイフに変えただけだと思っているんですよ。うちは戦争でなにもかも無くして、職人の子ですから高校に行くなんてこと考えもせず、集団就職で大阪のベニヤ会社に入ったんですが、負けん気が強くて、そこを3ヵ月で辞めて。 |
| 渡辺 | それは早いね。 |
| 井上 | それから大阪の東淀川の相川町にある東洋一だって言われた染物会社で働いた。僕らは未成年だから早く終わって、晩飯を食いに行けたんです。近くに、河内屋食堂ってありまして、そこのおばさんが僕のことをすごく気に入ってくれた。いい男だったから、結構もてたの、僕は。(笑) |
| 渡辺 | まあ名残あるよね。 |
| 井上 | 娘が3人いるから、私に養子に来いって言うんです。「ああ、そうか。こんな商売もあるんだ」と思いましてね。 |
| 渡辺 | 養子に行くのが商売? |
| 井上 | いやいや、洋食屋が。じゃあ修行しておかないと養子に行けないじゃないかと思って、それから梅田の弘済会がやっているカーネーショングリルっていうところに行きました。ところが、そこのおやじが仕事中から酔っ払っているんですよ。僕が新作を本を読みながら勉強して作ったら、皿をバチャーンと割られるんです。「おれはこんなこと教えていねえんだ」って怒る。1年いましたけど、こんなおやじのところにいてもって、京都ステーションホテルに行ったんですよ。だからいろいろありました、私の人生も。 |
| 渡辺 | そんなところに1年もいたんだから料理人が性に合っていたんだね。みんな住み込みで入るわけ? |
| 井上 | 寮がありまして。大勢が一緒にいます。僕はすぐ先輩を追い抜くぐらいのことを思っていましたから、それが踏ん張りになったんじゃないかと思います。 |
| 渡辺 | それで外国に修行に行くきっかはなんだったの? |
| 井上 | やっぱり東京オリンピックが、一番自分たちを変えてくれたんじゃないかと思います。我々の先輩が東京オリンピックの選手村に行って帰ってきて、我々がやっているフランス料理はフランス料理じゃないということになりましてね。じゃあ、こんな偽物を作っていてもしょうがないだろうと目覚めて、フランスに行こうってなったんです。21歳の時です。 |
| 渡辺 | まずフランスに行こうという大胆な発想をすることは見事だと思うけど、たしか最初はフランスじゃないよね。 |
| 井上 | イギリスとスイスとドイツに行って帰ってきたのが、京都ステーションホテルの僕の上司になって。なったのはいいんですが、本人もそうでしょうけど、24〜25歳ですから突っ張っているんです。それで「ばかやろう。おまえ程度だったら首になるだろう。おれに同じ店に行かせろ」って、親(兄?)に畑を4反売ってもらって、僕の飛行機代にしました。それからが私の人生の始まり。(笑) |






