

人生で起ることは、すべて必然だと思います。出会いも別れも必然であるという観点に立てば、今回の小説『望みは何と訊かれたら』も、偶然の出会いのようでありながら、実は必然だったという捉え方をして書かれた作品でもあるわけです。
人生の中で起きることは、たとえどんなに小さな出来事であっても、ひとつとして意味がないものはないと思います。誰だっていやな記憶は封印したいし、思い出したくないから鍵をかけてなるべく見ないようにするけれど、でも起ったことは起こったこと。どんな経験も、「なかったこと」にはなりません。
いやな記憶であっても、何十年か経ったときに、その経験が今の至福につながっていると気づくこともあります。いろいろなことが起きて、それが運命の連鎖といえばいいのか、何か意味があって連なっていく。だから人生は面白いんですね。
出会いがあれば、当然別れもあります。人生は思いどおりにはいかないし、なかでも人との関わりが一番、思いどおりにはいかないものです。ましてや男と女は。
恋愛の初期は、お互いに同じ幻を見ているけれど、それが日常化するにしたがって、もっとシビアにお互いの違いが見えてくるし。でも違いが見えてきたら見えてきたで、それを楽しめる方向にも持っていけるはず。
私自身は、水に流されるように生きるのが好きです。私の世代は、人間は自分で考えて、意思の力で人生を軌道修正していかなくてはいけないという、わりと堅苦しい考え方が主流でした。その反動でしょうか。私はいつも、「なぜ水に流されるようにして生きていったらいけないんだろう」と思っていました。
岐路に立ち、どちらの方向を選べばいいのかわからないときは、迷いもしたし、人に相談もしました。それでも結論が出せずに、自分でも決めかねていると、ある日ふっと、3つあった選択肢のうちの1つの流れに自然に乗ってしまう。振り返ってみると、そういうことの繰り返しでした。
生きていれば、結論が出せないこともたくさんあるし、自分では決めかねるときもある。そういうときは逆らわないで、とりあえず流されていこう、と。そういう人生哲学を得ましたね。
人生が大きな流れの中にあるのだとしたら、行きつく先がどこなのかはわからないし、それを予め想定するのは、ばかげていると思います。生きてみなければ、わからない。流されてみなければ、わからない。気持ちよく流れに乗れるときもあれば、急流に巻き込まれるときもあるでしょう。ときには岸辺で休んで一服してもいいし、あまり四角四面に考えずに、おおらかに流されたほうが、より面白く人生を送れそうです。
いいことも起これば、悪いことも起こる。人生はしょせん、つじつまあわせだから。でも悪いことも、本人の受け取り方次第ですよね。私も、「ついていない」と思う時期もたくさんあったけれど、それがずっと続くわけではなくて、また何かの拍子に変わっていくのだということを知りました。それもこれも、自分の流れを肯定して生きてきた結果だと思います。
流されて生きていく、などと言うと、いい加減に思えるかもしれませんが、実はこれも人としての本質的な強さがないとできないこと。流されていくのは怖いことかもしれない。怖いと、あえて枠を作り、そのなかに自分を閉じ込めようとしてしまいます。
『望みは何と訊かれたら』に当てはめて言うと、沙織と吾郎が再会したことに対して、流されていくという選択。いっさいの過去は否定すべきではないという、前向きな思いを、書ききったつもりでいます。
