

私が書く小説は、ジャンルとして「恋愛小説」になっていますが、自分の意識の中では年を追うごとに、「恋愛」にこだわっているわけではない、という感覚が大きくなってきました。人間の本質は何なのか。男と女が真摯に向き合ったときに何が生まれるか、何が失われるかなど、生きていればなかなか言葉にできないようなことを、小説の中で表現していきたい。それが私の場合、より多く、男女の話になったと思っています。
この秋に上梓した『望みは何と訊かれたら』も、いわゆる恋愛小説のイメージとは違うものです。愛とか恋、セックス、あるいは同志的な絆や友情、身内の感覚――そういったものと違うところで男と女が結びついたときどうなるのか、興味がありました。世間では名づけようのない関係だけど、それでも二人が一緒に過ごした時間は記憶の底に残っている。すごく不思議な関係を書きたかったのです。
平穏な生活を送っている沙織という女性が、偶然に、30数年前にかかわりのあった男性、秋津吾郎と再会する。そこから物語は始まります。30数年前と言えば、1970年代。私自身、その頃に思春期を過ごしたので、やはりあの時代に作家としての原点があります。
沙織は、高校のときちょっと反戦フォーク集会に出てみたり、東京の私立大学に進み、そこで出会った年上の女性に集会に誘われたり……特に思想的にとがっていたわけでもなく、あの時代、どこにでも普通にいる女の子だったと思います。それがいつの間にか恐ろしい方向に転がっていき、親しかった女の子がリンチにあって殺されるところを目撃してしまいます。そして恐怖にかられて脱走し、公園で年下の男性・秋津吾郎と出会い、不思議な関係が始まるのです。小さな家で一緒に暮らした濃密な数ヵ月間。沙織はその時間を封印し、結婚して子どもにも恵まれ、つつがなく暮らしていました。
もしかしたら沙織には、何かにすがりたいとき、その小さな家で過ごした数ヵ月間の風景が思い出されていたかもしれません。しかし再会さえしなければ、一生、記憶の底にしまいこんだまま、結婚生活を続けていたはずです。ところが二人は、再び出会ってしまう。30数年の空白が一挙に解消され、封印していた何かが解かれてしまいます。
そういう設定にしたのは、私の中での時間の流れの捉え方を、きちんと出したかったからです。思春期は思春期、30代の私は30代の私というように、一枚の絵のようにある時期が切り取られているわけではなくて、時間は連綿と続いているし、これからも続いていく。“今の私”というのは、その続いていく時間の一箇所にいる点でしかない。だから、どれだけ空白があったとしても、何かのきっかけでその空白自体が見えなくなってしまうほど、濃厚な時間の流れが見える場合があるのではないか。そんな時間の流れに対する感覚を、書いてみたかったのです。
人は年齢や一般常識、社会によって、知らず知らずのうちに縛られています。とくに40を過ぎると、社会が要請する形に自分を装い、人生を作っていく人が多い。そうやって生きている限り、微温的で安全な場所を確保できます。でも、そこからずれていく自分というのは、人間なら必ずあるはずだし、誰の中にも、年齢によって規定されない“私”があるはずです。
何がいつも私たちを寂しく思わせたり、苛立たせたりするのかというと、そうではない自分が自分の中にあるにもかかわらず、なかなか表現できない、誰とも共有できないからではないでしょうか。自分でも理由のわからない苛立ちや不全感を、老いも若きも、抱えている人は多いと思います。でも、とても抽象的なことなので、誰かに話そうと思ってもうまく話せない。私はその部分を、自分の作品の中で、あえて不器用ながらやっているつもりです。
