
思いがけずサッカー日本代表の監督となったのは、1997年10月、41歳の時でした。今だから言えることですが、僕は本来そんなに強い人間ではないので、正直言うとあの時は、自分はこのプレッシャーに耐えられないと思いました。本当は逃げ出したかったんです。
当時、加茂周監督の下でコーチをしていましたが、ワールドカップ最終予選のカザフスタン戦で引き分けになり、その夜、加茂さんは解任されました。翌週はウズベキスタン戦です。ところが日本からウズベキスタンまでは直行便もないし、ビザ取得にも時間がかかる。新監督を呼び寄せられない状況で、監督不在になってしまいます。
僕は当然、加茂さんと一緒に辞めるつもりでしたが、いくらなんでも選手だけを放り出すわけにはいきません。そこで仕方なく、「わかりました、1週間だけやります」と、ウズベキスタン戦の代理監督を引き受けました。ですからあくまで、1週間だけの監督のつもりでした。
その1週間の練習で、精神的にも肉体的にも、選手たちを追い込みました。たとえば中田英寿をレギュラーからはずした。ふてくされたら、すぐに日本に返すつもりでした。ところがみんな本当に必死になって練習して、必死で試合に臨んでくれました。
日本チームは徹底的に攻めたのですが、相手に先制点を取られました。もうダメかと思った後半終了間際に呂比須がゴールを決めて、結果、引き分けでした。あれだけ攻めたのに勝てず、選手みんなが泣いているのを見て思ったんです。苦しいのは僕だけではない。Wカップに出たい、でも出られないかもしれないと苦しんでいるのは、選手も一緒なんだ、と。
もし自分が辞任したら、おそらく外国人の監督がポッときて、「やっぱり無理でした」で終わる気がして――それを想像した時に、許せなくなったんです。選手たちを放り出して、ここでオレだけ逃げるわけにはいかない。「こうなったら最後まで責任取ったれ」と。もしWカップに出られなかったら、指導者としての将来はないだろうけれど、それでもいいと思いました。
日本に帰るとすぐ加茂さんに会いに行き、「本来、僕も一緒に責任をとるべきですが、続けたいと思います」と伝えると、「やってくれ」と言ってくださった。それで正式に、日本代表の監督になったわけです。
ところがその後が大変でした。僕は有名になると思っていないから、電話帳に自宅の電話番号を載せていたんです。脅迫状や脅迫電話が止まりませんでした。家の前は危険だからと、24時間パトカーが守ってくれ、子どもは危ないから学校の送り迎えをしてもらわなくてはいけない。スタジアムでものは投げられるは、椅子は投げられるは……そういう状態が続き、もうこれ以上、精神的に耐えられない状態でした。
それでも、なんとか頑張れたのは家族のおかげです。たとえ日本中の人が僕を非難しても、帰るところがある。家族だけは、「お疲れさん」と迎えてくれる。家族がいなかったら、耐えられなかったんじゃないかなと今でも思います。
イラン戦でジョホルバールに行った時はピークでした。試合前日にカミさんに電話をして、「もし明日、勝てなかったら、当分、日本には住めないと思う。家族で海外に住むことになると思う」と、本気でそういう会話をしました。ところが電話を切って1、2時間後、ポーンと突然、開き直ったんです。
「ちょっと待てよ。日本のサッカーの未来が、オレの肩にかかっているなんて。そんなもの、オレ一人では背負えないぞ。冗談じゃない」
僕はそれまで監督の経験がなかったけれど、今から経験を作るわけにはいかないし、有名な監督になれるわけではない。「今できるベストを尽くす以外にはない。それでダメなら、オレは知らんぞ。オレのせいじゃない。オレを選んだ会長のせいや」と。
そう思った瞬間、楽になって怖いものがなくなりました。

いよいよWカップ出場が決まり、三浦知良選手を代表からはずすと、ブーイングの嵐でした。僕自身は合宿で日本を離れていたので日本の様子を直接見ることはありませんでしたが、家族はきつかったみたいですね。子どもも、相当辛い思いをしたようです。
カズのことは尊敬していたし、大好きだったけれど、日本代表チームを勝たせるために監督としてやるべきことは何だろうと考えた時、あの結論に達したわけです。もちろん、反対したコーチもいましたよ。でも、オレが決める、と。あの時は、さすがに苦しかったですね。
僕はどんな時でも眠れますが、朝の4時くらいに目が覚めました。そこで「どうするんだ」ともう一度、自分に問いかけた。本当にチームのためだけを考えているのか。明日、死ぬとしたら、どうするか。そして、「子どもに対して誇れる生き方をしているのか」と考えていると、すっと心が晴れたんです。やはり落とすしかない。これでいいのだ、と。
あの頃は必死でした。監督として、弱みを見せられない。記者会見でも、どれだけボロカスに言われても、「このヤロウ」という気持ちで睨みかえしていた。だからいつもブスッとした表情で、目付きが悪かった(笑)。とにかく突っ張っていたので疲れましたね。
監督というのは会社で言うと、社長なんですね。副社長や専務ではない。コーチと監督の差は、コーチと選手の差より大きいと言われています。というのは、監督は、答えのわからないことを決断しなくてはいけない。たった一人で全責任を負って、コーチが全員反対しても、自分の信念にもとづいて決断しなくてはいけない。だから監督は、すごく孤独です。
決断を下すのは、怖いですよ、めちゃくちゃ怖い。決断の精度はひとつだけ。一切の私心を捨て、どれだけ素になって、開き直って、決断するか。とらわれを捨てて無の心になって、平常心で決断できるか。本当に素の状態でスッと下した決断は、だいたい当たります。ところが思い込みや捉われをもって決断した時は、失敗する場合が多いんです。
今回、素になれたからって、次もまた素になれるとは限らない。だから経験によって精度があがるわけではありませんね。
僕だって人間だから、いい人だと思われたいし、人から好かれたいけれど、監督を「いい人」だという選手は、自分を使ってくれるから。全員にたいして「いい人」にはなれません。選手全員に愛情を持っていなくてはいけないけれど、情に流されてはダメなんですね。
監督になって一番変わったのは、それまで人からどう思われているかとか、人に好かれたいとか、そういう気持ちがあったのが、少なくなってきた。それとともに、僕は一度、どん底を見せてもらったので、非常にタフになった。
人間は氷河期や飢餓など、いろいろな危機を乗り越えてきた強い遺伝子を持っているけれど、のほほんとした生活をしていると、そのスイッチが入らない。本当にどん底のどうしようもない場面に来ると、ポンとスイッチが入る気がします。経営者でも、名経営者は、倒産、投獄、闘病、戦争を知っている人だとよく言われるけれど、それは、どん底を知っているからだと思います。
そういう意味で僕はありがたいことに、監督生活の最初に、本当に苦しいどん底を経験した。そのおかげで後は楽になりました。

日本代表を退いた後、コンサドーレ札幌の監督を務めた後、2003年に横浜マリノスの監督になりました。その間、いろいろ失敗を繰り返しましたが、マリノスに行く頃ようやく初めて、「自分のベストを尽くしてダメだったらしょうがない」と、心から思えるようになりました。口で言うのは簡単だけど、本当にこの境地になるのは、並大抵じゃないんですよ。
マリノスに行った時、最初の記者会見で、「優勝を義務づけられたチームですが、プレッシャーはないですか?」と聞かれて、「まったくない」と答えました。「自信がおありですか?」「自信もない。ただオレは、自分のベストを尽くすと。それだけは自信がある」と。
勝負に絶対なんてありません。もしベストを尽くしてダメだったら、辞めようと思っていました。本気でそういう気持ちだったから、本当にプレッシャーはありませんでした。周りはみんな、心配してくれたけど、「アカンかったら、ごめん言ぅて辞めるわ。文句あるか」と言っていましたから。
しかしそれで完全に悟ったかというと、人間というのは不思議なもので、結果を出すとまた欲が出る。その繰り返しですね。ただ、その振幅は小さくなってきます。そういう意味で、僕にとって、監督をやったこの10年間に、劇的に人間が変わったと思いますよ。
監督として大事なのは、コミュニケーション。「おまえをちゃんと見ているよ」と、伝えなくてはいけない。選手はみんな、存在を認めてもらいたいんですよ。たとえばBチームの選手でも、体操している時に突然、歩いて行って、「おまえ、この前の練習の時、すごかったな」と言うと、ぱっと顔が輝きます。
選手同士も、自分たちの存在を認め合うことが大切です。30人男が集まったら、みんなが仲よしなんてありえない。どうもあいつは鬱陶しいなぁとか、苦手だとか、そういうのはあっていいんですよ。合わないけれど、こいつにパスしたら絶対点につながる、こいつ苦手だけど、あそこを守らせたら体をはって守るといったように、お互いを認め合うのがチームワークを高める上で一番大事です。
そのために監督としてできるのは場を作ること。企業のビジネス研修でよくやる手法ですが、グループワークと言って、4、5人でチームを作って、たとえば「高い木の塀を乗り越えるにはどうしたらいいか」といった課題をクリアさせる。合宿の合間に、そういうワークをやったりしました。
選手たちは監督にいろいろなことを言ってきます。僕の考えと違う場合、「僕はこう考えて、こういうサッカーをしようと思っている。おまえがやってくれたら、非常に嬉しい。能力もある。でもどうしても納得がいかないのなら、しょうがない。非常に残念だけど諦めるから、出ていってくれ。おまえが選んでくれ」と。
怒りも喧嘩もしない。ただそこで、肩を抱いて「頼むからやってくれ」とやると、自分で自分の首を絞める。そういう意味では、はたから見たら、非常に冷たく見えるかもしれません。
マリノスが優勝した翌年に、立役者の外国人選手をクビにしました。本当に鬼の所業をしてきましたが、チームが来年勝つために必要だと思うから決断しているのです。そういう時、私心がない自信はあります。
落とす時は、努めてドライに通告します。みんな頭にくるだろうけれど、後になってわかるんですよ。私心ではなくチームのためにやった決断だということが伝わります。今でも、カズとも普通に電話で話していますよ。

僕の人生、アップダウンがすごいんです。みんなからジェットコースターみたいだと言われるけれど、僕自身はそう思っていない。人間、オギャーと生まれたら必ず死ぬわけで、その間をいかに生きるか、でしょう。明日死ぬかもしれないし。先がずーっと決まっていたら、面白くないじゃない。
アップダウンが激しいのは、子どもの頃から。中学卒業する時、サッカーのプロになりたいからドイツに留学したい、高校には行かないと言って親を困らせて。当時のサンケイスポーツの運動部長が、この時代にそんな気概のある少年がいるのなら応援しようと思ってくれたらしいんですけど、会ってみたら、眼鏡かけたひょろっとした僕が来た。これはアカンと思ったらしく、「やめとけ」と説得されました。
高校はとくにサッカーが強い学校ではなかったけど、ユース代表に選ばれました。でもサッカーで大学に行きたくなかったので、早稲田を受験して、ものの見事に落ちました。そうしたら政経学部の先生で、サッカー部の部長を務めてらした堀江教授から手紙が来たんです。「君は最低合格点の半分もいっていないから、1年勉強しても政経は無理だ。教育学科体育学部なら大丈夫だから、来年はそちらを受けなさい」と。なにクソと思ってね。必死で勉強して、早稲田の政経に合格しました。
大学でサッカーの同好会に入ったものの、浪人中に体重が10キロ増えて、最初はしごかれるばかり。「もうヤメたるわ」と思ったんですが、すぐに辞めたら弱虫だと思われる。それは悔しい。僕がチームに必要だと思われてから辞めようと考えて、メチャクチャ頑張ったら、居心地がよくなった。(笑)
学生結婚していたので、卒業したらサッカーを辞めて、マスコミに就職するつもりでした。ところがその年はユニバーシアードがあって、スケジュールの関係で1社しか受けられない。そうしたら、その放送局が僕を落とした。もしあの時、放送局に行っていたら、今頃プロデューサーになって、「は〜い、何々ちゃん」なんて言っていたかもしれない(笑)。
結局、古河電工のチームに入社が決まりましたが、卒業間際になって、試験点数が足りなくて留年だという。結局、堀江教授にご尽力いただいて、なんとか卒業にこぎつけたんです。
そんなわけで、何をやるにもスムーズにはいかない。予定通りにはいかないのが人生です。だからこそ、面白いとも思います。ありがたいことにダメだと思っても、必ず救いの手が差し伸べられる。それの繰り返しです、僕の人生は。
堀江先生からは、人生哲学を教えられました。先生はいつも、こうおっしゃっていた。「自分にとってサッカーは、なくてはならないものだけど、一番大切なものではない」と。僕はてっきり、一番大切なものは学問だと思っていたんですけれど、ある日、子どもにものすごく優しく接しているところを見て、ふと、「先生にとって一番大事なものは愛情ですか?」と言ったら、「そうだ」と。「自分は、人類愛のために学問もサッカーもやっている」とおっしゃった。僕もまだ若かったし、ものすごく衝撃を受けました。
それ以来、岡田の「愛の5段階説」が生まれたんです。「自己愛」「恋愛」「家族・友人愛」「人類愛」。そこまでで4段階ですが、その次に「地球愛」を考えた。今自分は、どのレベルで物事を考えて行動したり、判断したり、仕事をしているのか。自分のためだけを考えているのか。もう一人、彼女のこと、妻のことを考えて行動しているのか。僕もいつかは、人類愛のために生きている、行動している、仕事をしていると言える生き方をしたい……それが、僕の夢です。そういう根本的な考え方を示唆してくださったのは、堀江先生です。

実は今、サッカーからまったく離れており、試合もほとんど見ていません。マリノスで2年連続優勝した後、そのあとまた同じやり方を繰り返すのはどうなのかな、と思って。どうも、同じチャレンジを根気よく続けていく才能がないんです。
そうこうしているうちに、去年の夏、自分が生きているというのはどういうことか、考えてみたくなったんです。「ひょっとしてオレは、自分の成功ばかり追い求めてきたんじゃないか」と、立ち止まってしまった。試合をやっていても、勝っても負けてもいいや、と思い出して。そんな人間が監督だったら、勝てるわけありません。精神的に闘える状況でなかったので辞めました。
次に何をしようか考えていなかったので、8月から年内、まったく働かなかったんですよ。そうしたらカミさんの機嫌がだんだん悪くなって(笑)、家の冷蔵庫に入っているビールがそれまでエビスだったのに、それがちょっと安いのに変わって、今度は娘と「発泡酒にしようか」と話している(笑)。これは、働かなくてはいかんと思って、講演活動を始めました。
今は主に、環境問題や、難民関係に積極的に関わっています。難民関係でいえば、難民フットサルや、カンボジアでの地雷除去フットサルを支援したり、電動車椅子のサッカーのワールドカップを10月に日本で開きますが、その支援をしたりしています。
環境問題は、学生時代から取り組んできたし、自分なりに勉強してきました。当時の世の中は環境とかエコとか言っても、「それ何?」という感じでしたが、この2、3年で、劇的に変わってきている。今はチャンスだと思っているので、サッカー協会にも、「やってみませんか?」と話を持ちかけています。
サッカーは本来、ボール1個でできるし、Jリーグの理念のように地域に根ざしたスポーツクラブができたら、休日に近くのスポーツクラブに行って、バレーボール、サッカー、テニスなどを楽しめる。これは、モノを消費しないライフスタイルなんです。要するにJリーグはライフスタイルを変えていく拠点になれます。
しかし、本来サッカーは環境にいいはずなのに、現実は何万人もスタジアムに人を集めて、煌々とライトを点けて試合をする。これは計算したら、ものすごい環境負荷なんです。1試合をすると、約3,150本木を植えなくてはいけない状態です。
それを少しでも減らすことが、サッカーやスポーツを永続的に続けていけることになるのではないか。それとともに二酸化炭素削減などの啓蒙活動をするのに、サッカー選手が「電気を消そう」と呼びかけても効果があるんじゃないか。
FIFAは国連より大きな組織で、一元管理ができます。日本発でFIFAが取りあげたら、世界中に環境問題が広がるんじゃないか。そういうことをやろうよと、日本サッカー協会に働きかけているところです。「岡田がまた、ややこしいこと言ってるなぁ」と思われているかもしれないけれど(笑)、地道に説得している最中です。
今のところ、不思議とサッカーが恋しくはならないんですよ。サッカーから離れたら、芸術家や経済人など、それまでとは違う方たちと出会えるようになって、すごく充実しています。今までとは違った世界です。
日本代表の監督をやって、コンサドールという弱いチームを勝たせて、J1でマリノスで優勝させて、次にモーチベーションを持たせてくれるチームがあれば、何かやるのかな。「サッカーで町おこしをしたい」とか、夢を語ってくれればいいんだけど、今そういう感じがないしね。もし可能ならば、海外で監督をやってみたい気持ちはあります。
やっぱりサッカーが好きだし、自分にとって大切なものだと感じています。離れようとしても、離れられない。いつかきっと、また戻る予感はしています。
岡田武史(おかだたけし)
1956年大阪生まれ。早大政治経済学部卒。98年フランスW杯で日本代表監督を務めたのち、99-01年コンサドーレ札幌監督、03-06年横浜F・マリノス監督を歴任。現在は日本サッカー協会特任理事として環境プロジェクトに携わる