
1991年31歳のとき、バルセロナオリンピック400m走で、日本人としては60年ぶりに陸上短距離で決勝進出を果たし、8位に入賞した時、多くの方々から「感激した」「涙がでました」という感想をたくさんいただきました。映画とか小説なら理解できますが、単なる“かけっこ”をしているだけの私にどうして感動してくれのか、学生時代にはさっぱり理解できなかったことが、競技者として晩年になってやっとわかるようになりました。
陸上を始めた頃は「走れ」と指導者から言われて受け身になって走っていた時もありましたが、とにかく一心不乱に練習に取り組んでいました。そして高校生あたりから記録もグングン伸びるようになり、優勝する痛快さ、勝ち続ける喜びを感じて、気がつけばどっぷり400メートル走の世界にのめりこんでいました。
やがて、大学院を卒業し社会人として競技することになると、単純に受け身で走るという姿勢から、走る事に対する価値観を探し求めるような心理へと変化していき、そして最終的には陸上400m走でロサンゼルス、ソウル、バルセロナと3回のオリンピックに出場して、12年間、日本では無敗を貫き通すことができました。
私が通常のアスリートより長く競技人生を送ることができた一つの要因として、「多くの人の前で走っている自分」に気づくようになっこと、そして周囲の力を借りて実力を発揮することができるようになったことが大きかったのではないかと思っています。短距離走は0.01秒を争う過酷なスポーツです。たとえば誰もいないスタジアムで一人ぼっちで走っても極限の力は出せません。30歳で出場した東京世界陸上決勝では、5万人が観戦してくれました。私が走ることにこれだけ多くの人が期待して見てくれるのかということを、心から実感した瞬間でした。それまでは自分のために走っていて、他人は関係ないと思っていたのが、あの時から陸上競技に対する心構えが大きく変化しました。「主役は選手だけではない、むしろ満員のスタジアムの主役は観客かもしれない」つまり、選手と観客がともに感動を求めてスタジアムに集っていたのかもしれないと考えはじめたのです。孤軍奮闘するのではなく、所属や周囲の応援に加え、マスメディアなどの力も借りて競技すれば今まで以上の力が発揮できる。そう思うようになっていったのが20代後半になってからでした。
そして競技を終えた今もなお選手育成も含め、ずっと“走る”ことに関わっています。そして益々走ることのむずかしさや奥深さに触れ、そして走るということに対して多くの人々と感動を共有し続けているのです。
では、どうして人々は走るという単純な運動にこうも思い入れが強いのでしょう。結局のところ、どう頑張ってみても走る速さではペットで飼っている犬や猫にも人間はかないのです。そんな小動物にもかなわない走るという行為を健気に挑戦し続ける人類という存在は、動物の目から見たら奇異に映るかもしれません。しかし、あえて生活手段から大きくかけ離れた走るという行為に、私たちは夢と感動を求めて進み続けているのです。
進化の過程で2本の足で立ち上がるようになり、走ることの苦手なわれわれが、しかも生活の手段として必要がなくなった時に、逆に走ることに挑戦し始めた人類の想いこそが、現在の繁栄につながっているのでなはいでしょうか。動物にはない想いがそうさせているわけで、その力こそが「人間力」だと思うのです。
たとえば今、陸上100m走の日本記録は10秒00ですが、誰かが9秒99を出したら、大ニュースになります。100mのタイムを100分の1秒縮めるのは、タバコ1本分の距離です。それが、新聞の1面を飾るかもしれません。
動物は生きてゆく上で、食や居心地のよさなどの満足を求めて日々生きているけれど、人間は満足だけではなく、生きていく先に必ず感動を求めるのです。人々が金をほしがるのも、お金で感動を買いたいからのです。私たちアスリートは、速く走ることに人間として持ち得る全てのエネルギーを傾注して、それをなしとげた時に、見ている人とともに喜びを分かち合える瞬間がある。そこに、私は使命を感じてやっています。感動を「共感」「共有」できるかどうか。人と人との間に共通感覚がなくなったら、芸術も文化もなくなります。
アスリートたちが命を賭けて挑戦し続けるのも、多くの人たちと感動を共有するためなのです。その感動が、人間を成長させ、変えていくのだと思っています。
高野進(たかのすすむ)
1961年静岡県富士見市生まれ。陸上400m走にてロサンゼルス、ソウル、バルセロナと三回のオリンピックに出場。‘92バルセロナオリンピックでは60年ぶりに陸上短距離で決勝進出という偉業を成し遂げた。現在は東海大学体育学部教員と東海大学陸上競技部短距離コーチとして活躍中。大学ではスポーツ科学論等の授業を通じて、学生に走ることの奥深さ・素晴らしさを教えている。もう一方では、今までの経験と研究を活かし、独自の走理論とトレーニング方法を確立、愛弟子の末續慎吾らと世界最速を目指している。アスレティクス・ジャパン株式会社 代表取締役。日本陸上競技連盟 理事・強化委員長。日本スプリント学会会長。400m日本記録保持者 44秒78
