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一期一会
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24歳での挫折

高校卒業後、バレーボール以外の世界をまったく知らないまま、社会人チームに入団して、ずっとバレー漬けの生活でした。その後、ナショナル・チームのメンバーに選抜されました。ところがシドニーオリンピックの出場権を賭けた最終予選で敗退したことをきっかけに、ふっと立ち止まってしまったんです。

竹下佳江 オリンピックそれまで、自分のすべてをバレーボールに注いできただけに、「オリンピックに行けないイコール、頑張ってきたのに報われない」という思いを抱いてしまったんです。さらに周りから期待されていたのに、裏切ったというか――それまで応援していただき、温かい気持ちを表現してくださっていたのが、手のひらを返したように批判もされ、とてもつらかったですね。

「こんな苦しい思いばかりするのは、もういやだ。バレーから離れたい」オリンピック予選敗退直後、その気持ちを抑えられなくなりました。でもチーム事情もあって、すぐには引退できなくて……。結局、バレーボールをやめたのは、オリンピック最終予選敗退から2年後です。


その2年間は、やりたくないのに、やらなくてはいけないという義務感で続けているのが、精神的に相当しんどかった。でもやるからには結果を出さなくてはいけません。コートにいる間は、やめることは考えずに必死でやりましたが、コートを出ると葛藤に押しつぶされそうでした。

小さい頃からバレーボールが大好きだったのに、「中途半端な気持ちはよくない」とか、「なぜ、バレーボールをやっているのだろう」と考えながら続けていたので、まったく楽しくなかったですね。

竹下佳江 オリンピック そういう思いでバレーをするのは、自分自身もいやだし、周りにも迷惑をかけてしまいます。それで、八方ふさがりの気持ちになってしまってやめました。24歳の時です。

とにかくバレーボールから離れたい一心でした。やめてからは、自由な時間ができますから、違う世界の人たちと触れられ、考え方の幅が広がりました。

一つの世界にどっぷり漬かっていると、考え方がどうしても偏ってしまいます。それまで、バレーの枠の中でしか、人と接点がなかったけれど、その枠から離れていろいろな人と接することで、何か吸収できる気がしたのです。

決心するまでの迷いや葛藤は、両親にも伝えていました。家族は私がバレーをやっている姿がとても好きなので、続けてほしいと願っていたようです。最終的にやめる時は、私の気持ちを理解してくれました。でもこの子は、きっとまたバレーをするだろうと思っていたようです。

やめてすぐに地元の福岡県・北九州に帰って、一人暮らしを始めました。親の家に帰ると、ずるずる甘えてしまいそうなので、あえて一人暮らしを選んだんです。それに高校の時からずっと合宿生活ですから、解放感を味わいたかったですね。

故郷に帰った直後は、バレーボールも見たくないし、考えたくもない。とにかく楽になりたい気持ちでいっぱいでした。やめることで、エネルギーを使ったし、周りの方々にも迷惑をかけたので、気持ちが沈むほうが多かったですね。

その一方で、すべてのことが新鮮でした。朝起きた時に、体がまったく痛くないんですよ。「こういうのが普通なんだ、すごい!」と、びっくり(笑)。それまでは毎日、あちこち体が痛いなぁと思いながら生活をしていましたね。

特に何もすることがないので、ぶらぶら散歩しました。すると、今まで見えなかった景色が目に入ってきて、心が安らぎます。「あぁ、こんなふうに風景を見て美しいと思ったこともなかったなぁ」と、心が洗われて。今まで感じたことのない安らぎでした。

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提供: (競技写真)©Jun Tsukida/AFLO SPORT
撮影:稲垣純也(インタビューカット)





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バレーボールに熱い私がいた

竹下佳江 オリンピック北九州に帰ってしばらくは、あえて何も考えないようにしましたが、落ち着いてくると、先のことを考えないわけにはいきません。

ハローワークに行って、手続きもしました(笑)。次につく仕事も決めずにやめましたが、なぜか根拠のない自信がありました。なんとか生きていけるだろうって(笑)。一般常識や知識はないけど、これまでバレーボールをやって、苦しんで頑張ってきたので、精神力や体力にはすごく自信がありましたね。これからの人生に絶対にプラスになると信じられました。

一番ありがたかったのは、いろいろな人と接する機会ができたこと。バレーとはまったく関係ない人や、社会で活躍している人など中学、高校時代の友人を通じて、地元での交友関係が広がったんです。見ること、聞くことすべてが新鮮でした。バレーの枠の中だけの常識が正しいと思っていたけど、そうではないことに気付かされました。


友人たちと楽しく遊んでいるうちに、ビーチバレーボールを誘われたんです。やってみたら、砂で競技するのと床とはぜんぜん違うんですね(笑)。勝負をしなくていいし、楽しいなぁ、と思いながら遊んでいました。そのうち、一般の人が参加する男女混合のビーチバレー大会に出ることになって、試合をしました。

試合に臨むと、どんどん熱くなる自分がいるんですよ。「負けたくない」「このゲームを落としたくない」と勝負に向かう気持ちが生まれてきます。そんな自分を見て、「私、バレーボールに対して熱いんだ」と気がついたんですよ。あんなにバレーは嫌いだと思っていたのに、心底嫌いではないと。今でも、同じように好きだし、熱くなれるんだって。

竹下佳江 オリンピック こういう気持ちでバレーができたら、楽しいかもしれないという思いが、きっかけとなって、バレーボールに戻ろうという気持ちが湧いてきました。

福岡に帰ってから、バレーのことが頭をよぎっていないといえば、嘘になります。この先、私は本当に一生、コートに戻らないのか――やっぱりいろいろ、考えていました。

でもバレーへの思いは、あえて自分でブレーキをかけていたんです。行ってはいけない、戻ってはいけない、って。

やめる時にも、「あなたはオリンピックに行きたくないの?」と言われましたが、私は意固地になって、「オリンピックはもういいです」と答えていましたね。「とにかく、やめたいんです」の一点張りでした。
周りの人たちからの、「復帰したらどうか」とか、「まだまだやめる年齢ではない。体力的にもまだできる」という声も聞こえてきましたが、復帰イコール移籍になってしまうので、それも悩みどころでした。

海外では移籍はごく普通ですが、日本の女子バレー界では、移籍はあまりいいこととは考えられていなかったんです。私もそうした慣習の影響を受けていたんでしょうね。入団したところで続けなくてはいけないし、そこをやめたからにはバレー人生が終わってしまう、と。移籍は裏切ることになるし、人としてやってはいけないこと、という思いでしたから。

竹下佳江 オリンピック 万が一復帰しても、自分はどうなっていくのだろう、イヤな自分に戻ると悲しい、とか日々、葛藤に揺れて過ごしていました。
ところが、ビーチバレーをきっかけに私の本当の心に気づき、ブレーキをはずした瞬間、「どうにでもなれ」とふっきれたんです。

スポーツ選手というのは、一人で動いているわけではなく、多くの人の支えもあるし、育ててくれた人の思いもあります。人とのつながりが大きいとは痛感はしていたけど、自分が一線を超える時は、そのあたりの迷いも飛び越えられるんですね。

最後は私一人で決断するしかないし、飛び越えてしまったら、もう前に進むしかない。割り切りというか、開き直るような気持ちはありました。なるようになれ、という感じでしょうか。踏み込んだ後は、自分がどこまで頑張れるか自分次第です。きっと頑張りきれる、その自信はありました。

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提供: (競技写真)©Jun Tsukida/AFLO SPORT
撮影:稲垣純也(インタビューカット)





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世界最小最強セッターへの道 3


再出発後、アテネオリンピックへ

竹下佳江さん復帰して入ったJTマーヴェラスは、今でこそXリーグで2位の力をつけていますが、当時は下のリーグのチームでした。以前いたNECレッドロケッツは、常にXリーグのトップチームですから、ナショナル・チームのメンバーとしての実績もあるのに、「ランク下のチームに入るなんてプライドがないのか」と言った方もいました。でも私は、何とも思っていませんでした。一度はやめた人間ですから、ゼロからのスタートと考えていましたね。プライドの問題ではないと思っていました。

ただ、ゼロからのスタートのつもりでも、実績もあるので、高い要求と期待をされます。最初は、求められることに応えようと必死でした。ナショナル・チームに選ばれるかどうかは、眼中にありませんでしたね。とにかく必要とされているところで、結果を出していきたい思いだけです。

再びナショナル・チームのメンバーになり、2004年、アテネオリンピック出場が決まりました。一度は破れた夢を、この手で掴めたのです。やはりオリンピックは、競技者として、一番、目指したい場所。それまで見えなかったことが見えたり、もやもやしていたものが現実として見えてくる場なんですね。


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それまでも国際試合は経験していましたが、全競技が集まるオリンピックはほかとは違います。やはり国を背負って闘うことを、肌で感じますね。選手村にもいろいろな競技の選手がいて、すでにメダルをとっている人もいれば、何日後かに試合を控えている人もいる緊張感があります。

オリンピックでメダルをとると大きな保障を得られる国もあるので、ハングリー精神を感じます。この目の色の違いはなんだろうと、びっくりしましたね。いわゆる国際試合とオリンピックは、まったく違うことも経験しなければ分かりませんでした。

やっぱりオリンピックは素晴らしいもの。それを次の世代にも伝えたいと強く思いました。私が最初にオリンピックを目指した時、何かを伝えてもらっていたかなと考えると、思い出せないんですよ。だから苦い思いだけが残ってしまった。でもアテネの時は、「オリンピックは本当に素晴らしいものなんだよ。あの舞台に立ったら、ほかでは決して味わえない経験できる」と、伝えてもらっていた。そこが大きな違いだったと思います。

竹下佳江さん 一度はバレーボールから離れた私ですが、復帰して、まず思ったのが、楽しくバレーをやりたいということでした。

でも今思えば、「楽しい」という感覚は、何かをやりきって、最後についてくるものです。何かをやっている最中は、やはり苦しい。「楽しさ」の意味を履き違えてはいけません。勝負の世界なので、楽しいだけではありません。勝負にこだわって追求しなくてはいけないな、と。復帰してから徐々に、そういうふうに変わっていったのだと思います。


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提供: (競技写真)©Jun Tsukida/AFLO SPORT
撮影:稲垣純也(インタビューカット)





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バレーを通じて人間を作る

竹下佳江 オリンピック 全日本チームのキャプテンに任命されたのは、2005年です。やはり年を重ねるごとに、役割も変わってきました。若い時は勢いにまかせて、思うままにやってしまいがちです。自分がコートで結果を出すだけで、満足だったりします。バレーボールは団体競技ですし、ポジション的にも、今は自分のことをセーブしてでも、みんなのことを考えなくてはいけないと思っています。

一番考えるのは、人と人をどのようにつなごうかという点ですね。やっぱり人間なので、普段のつながりを大事にしないと、コートで水漏れができます。性格も個性も違う人たちが集まる中で、一つのボールが空中で展開している競技ですから、人とのつながりが微妙に作用します。いい結果を出すには、テクニックだけではダメですね。

この状態だと、こういう声のかけ方をしたほうがいいとか、逆にこの子は放っておくほうが力を発揮するといった具合に、人によって対応の仕方も変わります。細かい点まで、気を配る立場ですね。


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一度引退したことが、今のポジションでとても役に立っています。引退前は、自分の視点だけで物事を考えていたのが、今は「こういう考え方もある」と、広い視野で答えを導けます。やめる前と復帰後ではトスが変わったとか言われますが、精神的な変化がチームにいい方向で反映されたらいいなと思います。

今年のナショナル・チームは年齢の幅が広く、20歳から35歳まで。私は29歳で、真ん中よりちょっと上。去年は私が一番上でしたが、30代のベテランの方たちが戻ってきて、私も勉強になることがいっぱいあるし、精神的な面でも力になってもらえるので楽しみです。

思えば24歳で挫折した時の親の予感は、当たったわけです。この子はまた、バレーボールに戻ってくるに違いないって。家族はシドニーオリンピックの予選にも、応援に来てくれましたし、引退までの2年間は、私と同じように苦しんでいました。それだけにアテネオリンピックが決まった時は、心から喜んでくれて、私と一緒に闘ってくれるんだなと感じました。家族をはじめ多くの人たちに支えられて、ここまで来られたんですね。

竹下佳江 オリンピック 高校の時によく言われていたのは、「バレーを通じて人間を作りなさい」と。バレーボールだけができる人間ではなく、スポーツを通して、人として恥ずかしくない人間になるように、と。本当にそのおりだと思います。

スポーツを通して、精神力や人に対する思いやりも勉強するし、苦しくつらいことも、喜びも経験します。そういう意味では、日々学ぶことが多くて大変。それをプラスにできるかできないのかは、自分次第ですね。

勝ち負けの世界ですから、どうしても勝負がクローズアップされますが、私にとっては、本当に人生の勉強をさせてもらっています。濃い人生だと思いますよ。バレーを通して、プレーヤーとして成長するのはもちろんですが、人間としてもっと大きく成長していきたいですね。

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竹下佳江(たけしたよしえ)
1978年、福岡県北九州市生まれ。セッターとして、全日本女子バレーボール代表の主将であり司令塔。2004年アテネ五輪で5位入賞を果たす。勝負どころの嗅覚の鋭さ、素早くボールの下へ入り込み、意のままに高速トスをさばくスピードは世界中で驚愕。2004年、プロ宣言し、現役日本女子唯一の「プロバレーボール選手」として、JTマーヴェラスを牽引


提供: (競技写真)©Jun Tsukida/AFLO SPORT
撮影:稲垣純也(インタビューカット)







 
 

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