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地平線の向こうに行ってみたい 1

[1] 無念のパリダカ中止

パリ・ダカール・ラリー 今年2008年のパリダカ(パリ・ダカール・ラリー)は、治安悪化のため中止となりました。中止が正式に決まったのはスタートの前日の1月4日。 スポンサー関係の壮行会の準備をしている最中にアナウンスがあり、その瞬間、会場はどよーんとした空気になりました。

前年の12月、パリダカのコースになっているモーリタニアでフランス人が強盗に襲われるという事件がありました。犯人はテロリスト一派らしいというので、フランスでは大きな騒ぎになっていたんです。 その頃から冗談半分で、ひょっとしてパリダカも中止になるんじゃないかという話が出ていたんですけどね。 だんだん冗談ではすまなくなり、1月に入ってからはプレスもスタート会場もシリアスな雰囲気になってきました。 僕ら参加者には正式発表の3時間くらい前に、中止になるという話がなんとなく伝わってきました。アナウンスを聞いて、「あ、本当だったんだ」と思いました。

正直、気持ちのやり場がなかったですね。いっそのこと、スタートして1日目か2日目に取りやめになったほうが、すっきりする。 というのも、1年間エネルギーを溜めに溜めて、ドーンと破裂するしかない状態まで膨らませて現場に行くわけです。それをそのまま日本に持って帰らなくてはいけない。 ヘタするとエネルギーがネガティブな爆弾に変わりそうで、いったいどう処理したらいいのかもわからないんですよ。今まで味わったことのない感情でした。

三橋淳さん 僕の場合、年明けに始まるパリダカを中心に1年のリズムを作ります。レース期間中に緊張度と攻撃性がピークを迎え、レースが終わっても3月、4月頃までは攻撃的な気持ちが続く。 そのうちだんだん呆けていって、8月くらいが呆けの頂点(笑)。その頃が一番危なくて、階段で転んで頭打ったり、ものを落として壊したりといったことが続くんです(笑)。 そして9月からだんだんエネルギーが上がっていって、1月のスタートに向けてエネルギーを溜めていく。そういうリズムです。 ところが今年はパリダカの中止で、いきなりそのエネルギーをもがれてしまったわけです。

帰国して、関係各社に事情説明してまわるのに1ヵ月くらいかかり――そのおかげで、感情のクールダウンができたのかもしれません。 また、それまではラリー以外のことには関心がなかったのですが、考え方を変えてサーフィンを始めたり、ゴルフをしたり。新しいことにトライすることで、新鮮な気持ちを保つようにしました。 幸い2009年のパリダカで、チームが新車のトヨタランドクルーザー200投入することが決まっていました。 それを造るにあたってチームのテンションもすごくあがっていたし、2月からマシンテストが始まるなど、エネルギーを使う場所があったのはラッキーでした。



撮影:和田直樹(タイトル)

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地平線の向こうに行ってみたい 2

[2] 初めてのパリダカ

パリダカという名前は知っていても、具体的な内容はご存知ない方も多いみたいですね。もともとはパリをスタートして、約1ヵ月かけてセネガルの首都であるダカールまで走るラリーです。 スタートとゴールの名前をとって「パリダカ」と呼ばれていますが、今はパリがスタートではないし、期間も約2週間と短くなりました。 一日平均600キロ走り、タイムの蓄積で優劣をつける競技で、世界で一番過酷なラリーとも呼ばれています。

三橋淳さん1 僕の場合、もともとは四輪ではなく、クロスカントリーのライダーとしてパリダカに参加していました。最初に出たのは、ちょうど21世紀が始った年。 日本人で完走した人がいないと聞いて、僕ならできるんじゃないかと思い違いと勘違いをして参加しました。(笑)
本格的にレースを始めたのは遅く、29歳です。それまではオートバイ専門誌のライターをしていて、年に2回ほど、遊びで草レースに出ていました。 でもある時、北海道のレースに出て、バイクを壊して帰ってきた。この状態では意味がないと思って。知り合いにも言われたんですよ。 無駄金を使ってるし、結果が出せないのは、中途半端にレースに出ているからだ、と。ひとつ真剣にレースをやってみようと心に決め、中途半端なことをやめて集中してみたら、結果が出るようになったんですよ。 そのうちサポートがつくようになり、海外のレースに出る環境が徐々に整っていきました。

最初にパリダカに出た時は、規模の大きさとシステムに圧倒されました。その年はパリから出発する最後の大会で、エッフェル塔がスタート地点です。 それは東京駅の前から600台の車とバイクとサポートトラックが並び、スタートしてレース車が都内を走るようなもの。それを観におじいさんから子どもまで、30万人くらいの人が集まってくる。 日本では考えられませんよね。モータースポーツの文化が日本とはあまりにも違うことにびっくりしました。
スタートしてしばらくは、スペシャルステージです。フランス国内を巡業し、町に寄って、「こういうマシンが着ました」と、披露します。 ヨーロッパを走っている間は競技というより、むしろ見せることが目的なんです。そういうシステムも知らなかったので、衝撃でした。 その後スペインに行き、南端のアルヘシラスからフェリーでモロッコに渡り、いよいよアフリカを走ります。

三橋淳さん2 アフリカは初めてでした。でもレースのシステムに飲み込まれないようにするのが精一杯で、風景なんて感じる余裕もありません。 毎日キャンプ地が移動しますが、ものすごい台数のサポートカーがいるし、関係者が2000人くらいいますから、自分はどこにオートバイを置けばいいのかすらわからない。 レストランはどこなのか、どこに行けば情報を得られるのか……僕は語学が得意ではないし、人に聞いても適当な返事しか返ってこないし。とにかく右往左往するばかりで(笑)。 アフリカに入って3日、4日は、何をどうしたらいいのか皆目わからず、ただあたふたしていました。他にも日本のライダーが出ていましたが、システムが把握できない上にお腹も壊して大変そうでした。 アフリカはミネラルウォーターの管理が悪くて、栓が開いているのもあるんです。逆さまにしてペットボトルを押して、漏れてなければOK。 炭酸水だと、蓋を開けた瞬間にプシュッと音がすれば大丈夫。炭酸水のほうがわかりやすいので、炭酸水を飲むクセがつき、今もいつも炭酸水を飲んでいます。(笑)

そんな具合ですからリズムがつかめず、当然タイムも上がらない。無理して走って崖から落ちたり、そんなことの繰り返しで、まったく自分の力を発揮できませんでした。悔しかったですよ。 でも感動もしました。アフリカは、僕がそれまで行ったどことも概念が違っていた。半径300キロ以内、誰も人が住んでいないところもあります。 モーリタニアで一ヵ所だけ、まっ平らな場所を走ります。360度地平線で、白い砂と真っ青な空のコントラストがすばらしい! そこをみんなでダーッと走っていくと、ものすごい砂ほこりが立つ。 なんてカッコイイ光景だろう。俺、すごいところを走っているな、と思いました。



撮影:和田直樹(インタビューカット)

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地平線の向こうに行ってみたい 3

[3] 二輪から四輪への転向

レースイメージ 二輪から四輪に転向したのは、自分の意志ではなかったんです。なぜこういうことになったのか、今だに自分でもよくわからない(笑)。 二輪ではプライベートでトップ賞ももらったし、僕としてはオートバイを続けてもっと上を目指すつもりだったんです。

ちょうどその頃、ニッサンがパリダカにファクトリーマシンで参戦していた。 パリダカでは二輪から四輪に転向するドライバーが多く、ニッサンもその流れに習おうと、ライダー出身の日本人ドライバーを探していたんです。 それで、南アフリカでファクトリーマシンを使ってテストがあるからこないかと、声をかけていただきました。正直、ダメもとで行ったんですよ。 南アフリカは行ったことないし、ファクトリーマシンも乗れるチャンスもそうそうないだろうし、経験するのもいいな、くらいの気持ちでした。 もう一人、他にも候補者がいて、そちらは広告代理店やテレビクルーも連れて南アフリカにきていました。僕はファクトリーマシンなんて乗ったこともないので、しょせん勝ち目はないと思っていました。

テストは2日間。1日目は開き直って、車がどんなふうに動くのかを試してみようという気持ちで乗りました。オートバイに慣れていると、ステアリングの遊びですら怖いんですよ。 こんなにハンドルを切っても曲がらないのかとびっくりしたし、車幅もよくわからない。とにかく初日は、そのあたりの感覚を探るためにゆっくり走りました。 現場にいた外国人スタッフたちの、「なんでこんなヤツ連れてきたんだッ!」という空気をバシバシ感じましたよ(笑)。翌日はタイムアタックをするつもりで、思いっきり走りました。 そうしたら現場の目の色が変わったんです。タイムもよく、「君は今後練習したら、どのくらいタイムがあがると思うか?」などと聞かれました。結果、合格。 まわりの人たちからは、せっかく合格したんだから、四輪でパリダカに出たほうがいいと薦められました。そんな経緯で、フランスのチームと合流して、2004年に参加することにしたわけです。

三橋淳さん 二輪はたとえサポートチームがいても、一人でレースを闘います。ところが四輪の場合、チームで闘わなくてはいけません。最初はそれにまったく馴染めませんでした。 変なたとえですが、トイレの個室に誰かが入ってきて、隣でしゃがんでいるような感じでした。そのくらい違和感があったし、ものすごいストレスでした。 おかげで怒りっぽい人間になってしまい(笑)……フランス人相手に、日本語で怒鳴ったりしていましたね。オートバイの場合、たとえばサスペンションやパーツの選定など、ライダーの意思が反映される。 ところが四輪は、ドライバーの意見が通らない。なぜそうなのか、最初は理解できなかったんです。

一番馴染めなかったのは、ナビゲーションを人に託さなくてはいけないこと。もともと、ナビゲーションをしながら速く走るところに魅力を感じてラリーを始めました。 単純に速く走るスキルを競うのなら、サーキットでいいわけです。自然の地形を読んで、ルートを探し、タイムを争う。 その総合力を競う場の最高峰として、パリダカに挑んできたのに、一番の面白さを取り上げられてしまう。そのストレスはものすごく大きかったですね。 結局この年は、マシントラブルもあり、リタイアしてしまいました。



撮影:和田直樹(インタビューカット)

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地平線の向こうに行ってみたい 4

[4] どん底から這い上がる

レースイメージ 実は四輪に転向すると決心した時点で、退路を断ったんです。僕の中では、オートバイでレースを続けていけばまだまだ伸びていけるという自信もあった。 でも、これも何かの縁だろう、四輪をやるからには、「ライダーだったら、もう少しいい結果も出せただろうなぁ」などとは思いたくはない。 そこで日本の住居もたたみ、持っているバイクも一切処分してフランスに渡りました。まさに帰るところのない状態に自分を追い込みました。

1年間、海外にいる予定でした。ところがチームの事情もあって、日本に帰らなくてはいけなくなったんです。 住むところもないので那須高原に貸し別荘を借りて、半年間そこにいて、精神的にも相当不安定だったと思います。 もともと気性が激しいので、落ち込むときの落ち込み方も半端じゃない。とことん落ちこんでいました。
今思うと、一種のウツ状態だったんでしょうね。「何しているんだろう、俺」と、どんどんネガティブになってしまい、引きこもり状態で人とも会いたくない。 日本での基盤を一切なくしていますから、練習する車もないし、何もできない。結局、半年間、気持ちを建て直すことができなかった。 後になって知人から、「あのときは死ぬんじゃないかと思った」と言われたくらいです。

表に出なくてはいけないと人からも言われ、なんとか気持ちを奮い立たせて自分から外に出るようになると、必要な出会いも生まれるんですよね。 そこから変わっていき、何が原因でこんなことになったのかを考え始めた。最初は人のせいにして、怒りの感情に捉われていたんですよ。あのとき、なんでパーツ変えてくれなかったのか、とか。 でも結局それは、自分のマネージメント力のなさが招いた結果だと気づいた。そうやって徐々に前向きになり、よし、もっと上に行こうというエネルギーが湧いてきたんです。

三橋淳さん 同じ失敗は繰り返したくない。マシンもチームも同じなら、何かを変えなくては、結果が出ません。だったら、何が悪かったかを徹底的に検証するしかありません。 同じチームでもいい結果を出しているドライバーはいますから、チームに文句を言うのは筋違い、自分に問題があるわけです。 そこで2回目の2005年は、チームのリズムを崩さないように自分のリズムを作るにはどうしたらいいか、自分なりに相当勉強しました。 結果を出しているドライバーのタイムを分析すると、面白いことに最初の4日くらいは、案外遅いんです。それがアフリカに入ってからどんどんタイムを伸ばし、中間くらいにピークがくる。 その段階で総合順位がガンと上がるので、そのあとは多少タイムが落ちたとしても、いい順位でゴールできる。よし、このリズムを僕も取り入れようと思いました。

ナビゲーターとコミュニケーションをうまくとることも、目標のひとつでした。言葉も必死で勉強しましたよ。2005年のナビは、人間的にも共感できる人でした。 途中で彼が指示したコースを無視して進んだのですが、その間にシークレットのチェックポイントがあってパスしてしまいました。 そのとき「僕が悪かった」と素直に謝ったら、彼は「いや、淳をちゃんと説得できなかった僕が悪い」と言ったんです。そのとき、あ、彼は人間として信用できる。 これからは彼の指示にすべて従っていこうと思えたんですね。
目的意識を共有して、お互いの力を出し合ってベストを尽くすと思えると、結果がついてきます。上を目指すためにはチームとしての総合力が大事だということに気づきましたね。




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地平線の向こうに行ってみたい 5

[5] 原点は冒険心

パリダカというと、サハラ砂漠を走るイメージが大きいと思います。砂漠を走っていると、巻き上げるほこりで前も見えない。前の車の真後ろにピタッとついても、車体すらよく見えません。 その状態で、ここぞというときに、谷に踊りこむようにして抜きます。日が落ちると、本当にまっくらです。ライトが届く範囲しか見えないので、森の中を走っている気分です。

レースイメージ ひとことで砂漠と言っても、実はいろいろな地形があります。 モロッコは礫砂漠なのでスピード競技を経験してきた人たちが有利ですが、砂砂漠のモーリタニアに入ると、上位に上がってくる選手がガラッと変わる。 これは僕の考えですが、砂砂漠で上位に上がれないと、クロスカントリーラリーには向いていない。実はそこが勝負なんですね。

2009年のパリダカはアフリカを離れ、アルゼンチンとチリが舞台になります。 今回はアンデス山脈の4500メートルも走るので、チームで高山病対策のプログラムも組みました。近々、筑波大学の低酸素室も経験する予定です。 アルゼンチンとチリに本当のオフロードがどのくらいあるのか、実際のところわかりません。もしダートロードが中心だと、僕にとっては不利な条件です。 基本的な四輪のスキルを持っているドライバーのほうが、圧倒的に力を発揮できるんです。 僕の場合、ドライビングスキルではなく、砂丘の向こうが見えないようなところで先を予測して対処していく能力で勝負してきましたから。 もちろん3年前から、スピード系の車も試したり、いろいろな車に乗って練習しています。
南米のことは、何も知らないんですよ。アルゼンチンってナスカの地上絵があるところ? それはペルーだよ、みたいなレベルで(笑)。 でもまぁ、初めて走るという点では他のチームも同じです。そういう意味では面白いドラマが待っているでしょう。楽しみにしています。

たぶん僕にとって原点は、知らないところに行きたい、遠いところに行きたい、という思いなんです。今、自分がいる場所から遠く離れたところを見てみたい。 常に新しいことにチャレンジし、新しい経験がしたい。それが今に続いています。子どもの頃、自転車が乗れるようになると、行動範囲が広がって楽しいですよね。 それをどんどん拡大していって、パリダカへと行き着いた。そんな感じでしょうか。

三橋淳さん クロスカントリーラリーは、どうやって近道を見つけるかを競う競技です。ルートだけではなく、走り方も探しながら走る。何が正解なのか、誰も知らない状態で走っているわけです。 そこが一番の面白さです。少年の頃に抱く、冒険心や探検への憧れ、そういうものの延長線上にあると思います。地平線の向こうにあるものを見たいという、未知の世界への好奇心です。

今月末のドバイでのレースには、トヨタランドクルーザー200で出場します。このレースはパリダカの前哨戦でもあるし、新しいマシンを実際に経験する大事なレース。 11月の14日にランクル200の発表会が日本でありますが、実際テストしてみると、走破力がすごいですよ。テールを流しながらギャップに対して斜めにポンと飛んでも、安定して着地できるのでスピードも稼げる。 そのペースで2週間走って、耐久性はどうか、来年のパリダカに向けて、そのあたりもテスト中です。

本格的にレースを始めて約10年。僕にとって一番大きかったのは、目標を得たことです。 それまでは草レースに出ても、「あぁ、楽しかった」で終わっていた。今はパリダカで上のクラスでいい成績を残すという確かな目標があります。おかげで物事の優先順位がつけられるようになりました。 それを無視して何かをすることはありません。恋愛にのめりこんだらリズムが狂うかもしれないけど(笑)、芯を崩してまで恋愛をする気はないです。 生き方がシンプルになったし、ぶれないようになりました。パリダカと出会えたおかげで、生まれ変わったんです。



プロフィール

三橋 淳(みつはし じゅん)
1970年、東京生まれ。プロドライバー。29歳からクロスカントリーライダーとしてレース活動を開始。日本国内のメジャーレースを総なめにし、「パリ・ダカール・ラリー」では3年連続完走、プライベーター部門で優勝するなど、その実力を世界に知らしめた。2003年からドライバーに転向し、4輪初レースの「ファラオ・ラリー」で総合9位、続く「シャムロックラリー」では総合3位に。「パリ・ダカール・ラリー」では4輪出場2年目に総合11位と、日本人ではトップの成績を残す。 2007年の「パリ・ダカール・ラリー」からトヨタオートボディのドライバーとして、市販車無改造クラスに出場し、クラス優勝を果たした。今後も活躍が期待される。


撮影:和田直樹(インタビューカット)

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