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アメリカ・プロリーグへの道 1

[1] 日本人初のNHLプレーヤー

プロアイスホッケーリーグNHL(ナショナル・ホッケー・リーグ)は、アメリカ最高峰のホッケーリーグ。 そのNHLの試合にロサンゼルス・キングスの一員として出場したのは、2007年1月13日です。日本人初のNHLプレーヤーになりました。

福藤豊さん練習風景1 当時僕は、NHL よりワンランク下のマイナーリーグ、AHL(アメリカン・ホッケー・リーグ)のマンチェスター・モナークスでプレーをしていました。 マンチェスター・モナークスはロサンゼルス・キングスの傘下にあるチームです。言ってみれば二軍みたいなものです。 1月12日の朝、電話がかかってきて、「早く荷物をまとめてセントルイスまできてくれ」と言われた。昇格する時には、いつもそんなふうに唐突なんです。 あわてて衣類や防具をまとめて、航空券を受け取り、空港に向かいました。予定ではマンチェスターからクリーヴランドに飛び、そこからセントルイスに入ることになっていました。 ところが空港に到着したら、クリーヴランド行きの飛行機が欠航だったんですよ。

いつかNHLでプレーしたい。ずっと抱いてきた夢が、まさに今、かなおうとしているのに、このままだとチャンスが逃げてしまいます。 なんとかクリーヴランドに行く方法はないかと聞くと、ボストンからだったら飛行機が飛ぶという。 タクシーで1時間かけてボストン空港に向かい、無事クリーヴランドまで行き着きましたが、天候が悪いためにクリーヴランドからセントルイス行きの飛行機が飛ばないと言うんです。 さすがにイライラして、「なんとかならないのか。僕は明日、キングスの試合に出なきゃならないんだ!」とかけあってみたものの、どうにもならない。 普通、試合前日にはチームと合流しなくてはいけないんですが、その日は諦めてクリーヴランドに泊まりました。そして翌朝1番の飛行機で、セントルイスに飛ぶことができました。

福藤豊さん練習風景2 ところが空港で荷物がなかなか出てこないんです。試合の開始2時間前には会場入りしなくてはいけないのに、荷物を受け取った時には、2時間を切っていました。 スタジアムまでは、タクシーで約1時間。やっとのことでスタジアムに着いたものの、試合直前なので、会場のまわりは観客でごった返しています。 タクシーの運転手さんはスタジアムのことをよく知らないらしく、観客の入り口から僕を入れようとするんです。 「ここじゃない、選手用の入り口にまわってくれ」とお願いしたのに、見つけられなくて。僕が「あった!」と声をあげても通り過ぎるし、時間は刻々と迫り、もう心臓はバクバク。 行ったりきたりしているうちにどんどん時間がたち、ついに開始前30分を切ってしまいました。さすがに僕も切れてしまい、「もういい、ここで降ろしてくれ!」と。 キングスの大きなバッグを担いで、スティックを持ってまごまごしていたら、セントルイス・ブルースのファンの人たちが「なんだあいつは」という感じで(笑)。 結局、ファンが「僕らが助けてあげるよ」と、入り口まで連れていってくれたんです。着いたのは、試合の15分前。そこから急いで着替えて、防具をつけてベンチに入りました。

でも正直、待機しているだけで、試合には出ないだろうと思っていました。朝早かったこともあって、ベンチでは眠くてしょうがないんですよ。 かなり試合が荒れ始めたのですが、出場はありえないだろうと、のんびりしていたんです。 そうしたら第2ピリオドの途中でコーチがやってきて、「3ピリおまえで行くぞ」と言われて、その瞬間、目が覚めました(笑)。まさか、という感じでした。
氷上に出たとたん、脚が震えてフワフワしてしまい――まるでリンクに脚がついていないみたいな感覚です。あんなに緊張したのは初めてでした。 スタジアムには2万人近くの観客が入り、ものすごい熱気です。しかも子どもの頃に憧れていた選手たちが、すぐ目の前にいる。
これがNHLなんだ、とうとうここにきたんだ、そう思いました。マイナーリーグ生活が長かったし、とにかくNHLの試合に出ることを目標にしてやってきたので、本当に嬉しかったです。



撮影:熊切 大輔(タイトル/インタビューカット)

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アメリカ・プロリーグへの道 2

[2] アメリカ体験で受けた衝撃

福藤豊さん1 アイスホッケーを始めたのは小学校3年生の時。生まれ育った北海道の釧路はアイスホッケーがすごく盛んで、当時、小学生のチームがありました。 スケートは3歳からやっていました。体育の授業でもスケートがある土地柄なので、ごく自然にスケート靴を履いていたましたね。

小学生チームに入って1年はフォアードをやっていましたが、監督に「おまえ大きいからキーパーをやれ」と言われました。最初はイヤでしたね。 みんなと一緒にプレーできないし、キーパーは練習の内容もみんなと違いますから。なんとなく孤独感があったんです。 当時は今みたいに防具が軽くなかったので、水を吸い込むとどんどん重くなっていくんですよ。子どもだったし、最初の頃は転んだら立てませんでした。 ただ負けず嫌いだったので、できないことが悔しくて頑張っていましたね。監督がすごく熱心に指導してくれたこともあって、シュートを止める感覚やキーパーならではの楽しさを、徐々に覚えていきました。

実業団チームに入るまでは、海外には特に興味がありませんでした。というか、知らなかったんですね。 ところが海外遠征にでかけたり、世界選手権などの国際試合に出るようになって、びっくりしたんです。それまで見たことのない世界でした。とにかくレベルの高さが半端じゃない。 衝撃でしたね。もっとうまくなるためには、海外に出なくてはいけない、そう思いました。そこからですね、積極的に「アメリカに行きたい」とアピールするようになったのは。

福藤豊さん2 念願かなって最初にアメリカに行ったのは2002年、19歳の時です。正直言って、突き落とされた感じでした。試合に出られないどころか、まともに練習すらできませんでしたから。 日本では練習に出ると、順番がくれば必ずシュートを受けることができます。でも向こうはそうじゃない。 もともといるキーパーは「ここは俺のゴールだぞ」という感じで、練習中もシュートは全部自分が受けようとする。僕の入り込む余地がないんです。
ここにいる意味があるんだろうか。だんだんわからなくなってきました。日本にいて試合に出ていたほうがいいんじゃないかという疑問も沸いてきて、苦しかったですね。 悩んで、心が荒れそうな時期もありました。言葉もよくわからないので、自分が言いたいこともうまく伝えられない。一番悔しかったのは、チームの一員として扱ってくれなかったことです。

3ヵ月ぐらい経って、このままではアメリカにいる意味がない、自分が変わるしかない、と発想を変えました。まずはチームメンバーともっとコミュニケーションをとろう。 そのためには、英語を身につけないことにはどうにもならない。もう、必死でしたよ。アイスホッケーより英語のほうが大事(笑)。最初はまったく話せなかったし、聞き取れなかった。 それでも、辞書を見ながらとにかくチームメイトに話しかけました。 溶け込もうとしなかったので、誰も相手にしてくれなかったけれど、つたないながらも自分からコミュニケーションをとろうと努力すると、受け入れてくれるんです。 練習中にシュートを受けられないのであれば、居残りをしてみんなにシュートを入れてもらったりもしました。自分なりに考えて、できることはいろいろやってみました。
すると、試合にも出させてもらえるようになり、最後の3ヵ月は楽しかったですね。とにかく1シーズン乗り越えることで、技術的にも精神的にも成長して大人になれた気がします。 あのシーズンがなければ、今の僕はありません。



撮影:熊切 大輔(タイトル/インタビューカット)

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アメリカ・プロリーグへの道 3

[3] アピールしなければ始まらない

シーズンが終わって帰国し、その後どうするかをじっくり考えました。その結果、1年間日本でしっかり準備をした後に、もう一度アメリカでチャレンジするという気持ちになったんです。 日本でレギュラーになっていたわけでもないし、ベストキーパーをもらえたわけでもない。自分には日本でやらなくてはいけないことが、まだまだある。 それを全部やりとげてから、アメリカで再チャレンジしようと決めました。

福藤豊さん使用の防具 日本にいる間も、チャンスを掴みたくて、アメリカのいろいろなチームに僕がプレーしているビデオテープを送っていました。そんなことをしても無意味だとはわかっていました。 でも、一見無駄に見えることも含めて、とにかく行動をしなければ、何も始まらないので積極的に動きました。とにかく「行きたい」と強く願い、気持ちをアピールし続けることが大事だと思ったんです。

2004年、NHLのロサンゼルス・キングスからドラフト指名を受けました。だからといって、すぐにNHLのチームに所属できるわけではなく、マイナーリーグからの出発です。 アメリカのプロの世界は厳しくて、あっという間に下のリーグに落とされます。いきなり「今日からおまえはいらない」と宣告されることも普通なんです 。身分も保証されておらず、1試合、1試合が本当に厳しい試練、1日、1日が勝負です。 それを目の当たりにして、やっとの思いで最初にアメリカに行った時、練習中にシュートを受けさせてもらえなかった理由がわかりました。自分の仕事を他の選手にとられたくないから、みんな必死です。 ですから、下から上がろうとする選手がアピールする場を与えてくれません。自分が生き残っていくためには、言い方はよくないですが、他人を蹴落とさなくてはいけない。 そのくらい厳しい世界だということが、チームに入って初めて理解できたんです。そこから僕自身、変わっていきました。日本人はとにかく控えめだけど、それではいけない。 もっともっと自分をアピールしなくてはダメだと気づきました。

最初は正直、人を押しのけ、蹴落としてまで自分を押し出すのはイヤでした。人間として醜い気がして。でも、ある時、そういう感覚は捨てました。 郷に入れば郷に従え、アメリカで生き残るためには精神的にタフでなければやっていけません。文化の違いなんでしょうね。 アメリカに行ったおかげで、ハングリーさが生まれた気がします。貪欲になりました。お人よしでは、やっていけないのがアイスホッケーです。

福藤豊さん使用のヘルメット 今はアメリカと日本の生活が半々。アメリカのオフシーズン中は、日本のチーム(SEIBU プリンス ラビッツアイスホッケーチーム)で練習していますが、日本に帰ると、日本流のやり方に戻ります。 日本で練習するよさは、何年も一緒にやってきた選手や小さい頃から知っている選手たちと、楽しい環境で練習できること。いいリフレッシュになります。
アメリカにいる時は、30分くらい軽くチームで練習して、食事をとり、それから昼寝をします。昼寝しないと、試合中に眠くなるので(笑)。 休みの日はジムに行ったり、時にはみんなでパーティーをしたり。体と精神の自己管理は、プロとして最低限必要なことです。僕はシーズン中、ほとんどお酒を飲みません。 イチロー選手が試合前は必ずカレーライスを食べると聞き、僕もまねしています。気のせいか、集中力が出ますね。(笑)
アメリカのリーグは移動もすごく多く、アウェイに出たら1週間くらい帰ってこられないこともあります。マイナーリーグは全部バス移動なので、10何時間もバスに揺られて次の場所に行きます。 そういう過酷な生活を続けながら、平均していいプレーをするためには、精神面でのコントロールも重要です。追い込まなくてはいけないときは追い込み、ゆるめるときはゆるめられるようにならないと。 時間を見つけてリラックスするなど、うまく切り替えることも大事です。 アメリカに行き始めて1、2年は帰国すると、もう少し日本にいたかったのが、今はむしろアメリカの生活がベースになっています。すごく充実しています。



撮影:熊切 大輔(タイトル/インタビューカット)

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アメリカ・プロリーグへの道 4

[4] もっと上に、もっとタフに

福藤豊さん1 アメリカでチャレンジし続けるのは、もっとうまくなりたいからです。向上心と言ってもいいし、欲と言ってもいいかもしれません。 今はマイナーリーグにいますが、マイナーリーグでも6000人くらいの観客が入る場所でプレーできます。日本ではなかなか味わえない大きな経験で、いい緊張感を持ちながら試合をしています。 それにアメリカは試合数が多く、年間72試合あります。多い時は1週間に5試合。週に2試合のこともありますが、土、日は必ず試合です。だから練習がメインではなく、試合がメインなんです。

日本はその半分以下しか試合数がありません。そのくらいだと、試合より練習がメインになってしまい、緊張感に欠けます。 若い選手を育てるためには、もっと試合数が必要だと思います。選手は試合をやらないと伸びていかない。やっぱり実践での経験が重要ですから。

アメリカのいいところは、多少レベルの低い選手でもそのレベルにあったリーグがあるので、試合に出られない選手があまりいません。 日本だとチームに所属していても、試合に出られない選手がけっこういます。試合経験を積めば、伸びる可能性を持っていても、チャンスがないですから、もったいないですよね。 その点、アメリカは環境が整っています。下のリーグでいい結果を出せば、チャンスをつかんで上に行けるわけですから。

福藤豊さん練習風景 一番つらいのは、チームとして結果が出せないことです。負けが続くと、みんな負けたことを人のせいにしたり、監督も不機嫌になるし、チームの雰囲気が悪くなっていきます。 そこでまた負けるとさらにイヤな空気になり、悪いスパイラルに入りかねない。実は、内容の悪い試合をしてしまったら、次の試合がものすごく大事なんですよ。 そこでいいプレーができないと、いい選手とはいえません。

他の競技もそうかもしれませんが、アイスホッケーもメンタル面がすごく大事で、ある程度までの技術が身につくと、あとは精神的な部分で差が出ます。 特にゴールキーパーは、メンタル面での強さが必要。点をとられて、いちいちクヨクヨしていたら、どんどん点をとられていきます。 1点入れられたからといって、試合に負けたわけではないのですから。延長戦で1点とられて試合が負けたら、試合が終わってから悔しがればいい。 でも氷上で感情に流されては勝てません。気持ちのタフさが大事です。キーパーが動揺すると、必ず試合が崩れるので、常に平常心でいないといけない。僕自身、メンタル面は強いほうだと思います。

福藤豊さん2 もっと僕に続いてアメリカに行く選手が出てくるといいな、と思います。1歩踏み出せるかどうか、なんですよね。行きたいと強く願うかどうかです。 行きたいと思うんだったら、踏み出して行動に移してほしい。選手としてやっていられる年数は、決して長くはありませんから。最近は、1シーズンだけアメリカを経験する選手も出てきました。 ただ1年では、何もできないままで終わってしまうと思うんです。ある程度続けてこそ、見えてくるものがあります。僕も1、2年はあくまで外部の人間扱いでした。 今やっと、チームメイトから信頼されるようになりましたね。
日本ではアイスホッケーは、まだまだ人気がありません。ゲーム展開が速いし、スピード感があって、プレーしていても観戦していても面白い競技です。 プレーにもいろいろ巧みなあり、一度見ると楽しさがわかると思います。その魅力を知ってもらうためにも、僕がアメリカに出ている意義があると思っています。 もっと有名になれたら、アイスホッケーに注目してくれる人も増えてくるはずですから。これからも上を目指して頑張っていきたいです。 アイスホッケーをやっている以上、誰にも負けたくない。1番になりたいし、早くNHLの舞台でプレーしたいですね。



プロフィール

福藤 豊(ふくふじ ゆたか)
1982年、北海道生まれ。日本の潟vリンスホテルと、北米のプロアイスホッケーリーグのECHL ベーカーズフィールドに所属するアイスホッケー選手(ゴールキーパー)。日本人初のNHLプレイヤー。 小学校3年生からアイスホッケーを始め、高校ではU-18世界選手権・世界ジュニア選手権などに出場し、3年には高校生初の日本代表に選出された。 2001年にコクド(現潟vリンスホテル)アイスホッケー部に入部。翌2002-03年はECHLのシンシナティ・サイクロンズでプレーし、2004年6月にNHLのロサンゼルス・キングスから日本人では史上2人目のドラフト8巡で指名された。その後アメリカを拠点に活動。2007年、ECHLのベーカーズフィールドコンドルズと契約。今後の活躍が期待される。


撮影:熊切 大輔(タイトル/インタビューカット)

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