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夢さえあれば 1

運は自分で運んでくる

小出義雄さん 佐倉アスリート倶楽部前にて 佐倉アスリート倶楽部を設立して7年目。建物は、昨年建てました。どうせ道楽をするのなら、最後まで道楽しようと思って贅沢に作りました。 1度しかない人生だから、好きなことやりたいじゃない。(笑)
競馬で言う厩舎みたいなことを、陸上競技でやったら面白いんじゃないかと思って始めたんです。競馬は馬主がいて、馬を厩舎に預けますよね。 餌代や調教代を払って、調教してもらう。一等をとれば、馬主も厩舎も万々歳でしょう。

不景気になると、スポーツのチームを持てない会社が増えていき、たとえチームを持っていても、そのうちに廃部するところが多いんです。 陸上はバレーボールやラグビーのようなチームスポーツとは違って、選手は1人や2人でも成立するし、それほど経費がかからない。 だから選手を預かって、指導するシステムがあってもいいんじゃないか。いずれそういう時代がくるんじゃないかなと思って“佐倉アスリートクラブ”を始めました。

企業の監督をやっていると、ちょっと成績が悪いと、「何やってるんだ」と言われるでしょう。いい年して、頭ぺこぺこ下げるのイヤだから、預かって自分でやっていれば、文句言われない。 その代わり、責任はあるんだね。今、豊田織機とアルゼ、二つのチームを預かっていて、両方合わせて、21名です。

小出義雄さん 二つのチームが、いずれ全日本実業団対抗女子駅伝大会で、1位、2位を取ってくれればいいな、と思っている。去年アルゼは4位。豊田織機は予選落ちしたけれど、今年は優勝争いができるんじゃないかな。 一番強いのは三井住友海上で、他にも天満屋とか第一生命とか強いから、そうそう簡単ではないけれど、2チームとも3位以内に入るのが、目下の夢。僕は、今年69歳。 いいジイサンがまだそんなことやってる。でも、好きなんだからしょうがない。ずっと夢を追いかけてきたけど、まだまだ夢があるんだからね。

小さい時から、夢は100パーセント実現できている。その代わり、人より頑張っていると思う。みんな運がいいねと言うけれど、運というのは、“運ぶ”と書くでしょう。 自分で運んで持ってくるもんなんだよね。
人間は夢を追いかけていると、怖いものはない。毎日、「生きていて嬉しい」と感じる。どんなに悩みがあっても楽しいものなんだね。生きていれば悩みがない人なんていないでしょう。 欲もあれば、悩みもある。でも悩みは、時間が解決してくれると思っているから大丈夫。

かけっこは、小さい頃から好きだったなぁ。 農家の長男だから農業高校に行って、陸上部に入ったら、指導者がいなかったから自分で本読んだり、資料集めて、トレーニングのメニュー作って練習して、千葉県で優勝した。 そんなことがあったら、ますます陸上が好きになるよね。僕は得している。先生がいたら、自分で研究しなかっただろうからね。(笑)



撮影:和田直樹(タイトル/インタビューカット)

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夢さえあれば 2

大事なのは決断と判断

農業を継ぐために高校卒業後半年間、家にいたけれど、まずい、このままじゃ終わっちゃうと思ったんだ。どうしても陸上への夢が捨てられなくて、家を飛び出してしまった。 19歳だから、怖いものなんかなかった。1日1食でしのいだこともあるし、いろいろなアルバイトをやった。電話線引いたり、荷物運んだり、真っ黒になって働きながら、頭の中は箱根駅伝。それしかなかった。

マラソンイメージ 4年後、順天堂大学に入れることになった。嬉しかったね。面接の時、なんで入りたいのですか?と聞かれて、箱根駅伝に出るためです!そう答えたら、先生たちは笑っていましたね(笑)。 推薦試験を受ける人は、みんないずれ教員になりたいとか、勉強したいとか答えるらしい。でも僕は、正直に答えた。変わったヤツだと思われたみたいだけど、入れてくれましたね。 一所懸命、夢に向かって生きていると、見てくれる人がいるんだと信じているんだけど。
念願かなって大学に入れたので、嬉しくて、嬉しくて、陸上の練習がぜんぜん苦にならなかった。オリンピックに行きたい、なんて、虫のいいことを考えていたね。 気づかなかったんだよ、自分に素質がない、ということに(笑)。とにかく、走るのが好きだからね。

高校の教員になったのは、27歳。僕が行くと、それまで弱かった陸上部が必ず強くなる。今、三井住友海上の監督をやっている鈴木秀雄も教え子だったけれど、5000メートルでインターハイ2位になった。 砲丸投げも槍投げも、やったことなかった。なぜか生徒に聞かれるんだよね。だから本読んで研究して、「こうやれ」とアドバイスしたら、日本で3位くらいにはなる。 その代わり、人より何割か余計なことをやらせるよ。トレーニングは、とにかく厳しい。小出は褒めて育てるとよく言われるけれど、僕は決して甘やかさない。 褒めると甘やかすは違うし、褒めただけで伸びるなんてありえないからね。

小出義雄さん 次の高校も、僕が行って2年目で男女とも日本一になった。3年目に駅伝に出させて4位、4年目には高校新記録で優勝したから、もうやることがない。 どうしようかなと思っていたときに、今度はオリンピックで金メダルを獲ろうと思った。そのとき48歳。思いついたら、グズグズ迷わず即、行動。 辞めさせてくださいと校長と教育長に言うと、「今辞めたらもったいない。あと5年居たら退職金と恩給がしっかりもらえるんだぞ。」と返ってきました。
でも僕は「お金も大事だけど、もっと大事なのは金メダルです」って言った。そうしたら、「小出さん、そりゃあ無茶だよ。今まで陸上で金メダルを獲った人なんていないよ」といわれちゃった。 そこで僕は、「無理だと思うから無理なんですよ。でも僕は、獲ろうと思っています。だから辞めます」って言ったの。頭がおかしくなっちゃったって思われたかな?(笑) 家に帰って、女房に「俺、辞めるわ」と言ったら、「ご飯は食べられるの?」と聞くので、「ご飯くらい、食べられるだろう。食えなかったら、田畑売っちゃえ」と。 そうしたら女房が、「どうせ1回しかない人生なんだから、好きなことやれば」と言ってくれた。いいこと言うな、面白いヤツだな、と思った。(笑)

なぜ48歳で辞めたかというと、50過ぎると、現状に満足してしまうと思ったからです。体力がなくなると、人間はまぁ、いいかと日和ってしまう。 だから僕は、体力が落ちる50前に辞めたかった。人間にとって大事なのは、決断と判断。あと5年いて恩給が増えてから辞めよう、なんて思っていたら、夢は叶わないものです。



撮影:和田直樹(タイトル/インタビューカット)

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夢さえあれば 3

5重人格くらいにならないと

小出義雄さん 僕が指導すると、なぜ選手が強くなるのかというと、まだ日本の陸上のレベルが低かった時代に、勝てるトレーニング方法を知っていたからです。有森裕子も、決して速い選手じゃなかった。 しかも小さい頃に交通事故にあっているので、脚に問題がある。でも本人が、オリンピックに行きたいと言うので、僕は驚いて、おまえ、素質ないぞ。本気か? と聞くと、本気だと答えた。 そこで、おまえの能力だったら、日本で3位以内に入るためには、こういうことをやらなきゃいけないと思うよと、プログラムを作った。当時、男子でもやっていないくらいハードなプログラムなんです。 ところが有森は、みんなが60分で音をあげるトレーニングを、私はその倍、頑張れますと言い切った。それならおまえ、可能性あるぞと言って始まった。有森は泣きながらやっていましたよ。

小出義雄さん2 走っている途中は真剣勝負だから、どんなにトイレに行きたくても絶対に行かない。すごいよ、その根性は。それを続けていたら、あれだけ速くなったんだね。
有森はバルセロナ・オリンピックで銀メダルを獲ってから、自分なりにいろいろ模索するようになりました。自立心が芽生えたんだね。 それは成長の証だと思ってしばらく放っておいたら、うまくいかないらしくて、もがき始めた。踵が痛いって、泣いてきたんです。 それですぐに順天堂の後輩の整形外科医のところに連れて行き、日本では彼以外、誰もできないという、ドイツ仕込みの手術をやってもらった。 手術後、リハビリをして、練習を始めて……そうしたら有森が、アトランタ・オリンピックで優勝したいと言い出した。よし、本人がそこまでやる気があるんだったら、メダルを獲らせよう。 そのためには、アトランタで試走させたいと思い、アトランタ警察に手をまわして、2回、試走ができた。根回しも大事なんだよ。 結局、有森はオリンピックで2つのメダルを獲ったんだ。彼女みたいに、決して素質に恵まれていなくても、メダルは獲れることが証明されたね。

高校教員時代、154pで55キロの女の子がいて、毎日一緒にジョギングしたが、とにかく遅い。2年のとき、フルマラソンを走らせたけれど、本当に遅かった。 そこで減量の仕方を教えて、10キロ痩せたら、少し走れるようになった。そうしたら昭和53年、歴代3位の成績で走ることができたんだ。 そのとき、「これだったらいずれ日本の女子選手は金メダルを獲ることができる」とピンときた。(笑)

監督やコーチ、先生は、諦めてはいけないんだね。子どもより、選手より、もっともっと努力して粘らなくてはいけない。5重人格くらいにならないとできない。 いろいろな性格の選手がいるから、その子にあわせて、怒るふりをしたり、怒らないふりをしたり、なだめたり、接し方を変えなくてはいけない。そして、全力で伸ばしてやる。それが大事なんじゃないかな。



撮影:和田直樹(タイトル/インタビューカット)

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夢さえあれば 4

耐えて、耐えて、耐え抜く

Qちゃん(高橋尚子選手)は最初、3000や5000メートルを走っていたけれど、それほどいい成績は出なかった。マラソンが向いているんじゃないかと思って奨めたけれど、最初は迷っていたみたいだね。 それで当時エースだった鈴木博美がアメリカで合宿するので、合宿パートナーとして無理やり一緒に連れていったんです。 高度3000メートルくらいのところで練習させると、これがけっこう走る。なんとかこの子を育ててみようと心に決めた。

言葉 指導した選手に、オリンピックで金メダルを獲らせるのが僕の夢。60歳くらいのときに金メダルを獲らなくては、一生獲れないなと思ったから、必死でしたよ。 ところがQちゃんは、どういうわけか合宿になると、怪我をしたり体調を崩して故障する。
シドニー・オリンピックへの代表権を賭けた名古屋国際女子マラソンの準備のために徳之島で合宿をしたときも、お腹が痛いといって泣き出した。 慌てて病院に連れていったら、食中毒で2日ほど入院しなくてはいけなくなった。あのときはマスコミが大勢取材にきていたから、とにかく入院していることを隠さなくてはと苦労したね。 朝食時も姿が見えないわけだから、「Qちゃんは練習が好きだから、夜明けと共に走りに行った」とか、ウソついてね。(笑)

合宿中、嵐で練習ができない日が多かったし、Qちゃんは倒れるし。僕も不安で全然寝られなくなって、仕方ないから夜中に一所懸命、メモをとっていた。 後で読み返すと、ノートに「針のむしろに座りつつ」なんて書いてある。外は暴風雨。そのとき、そうだ、選手より先に監督が諦めたらおしまいいだと自分に言い聞かせ、こう書いた。 「雨風に耐えて花咲く時を待つ」。耐えて、耐えて、耐えて、よし名古屋だって思えた。

小出義雄さん1 退院したものの、Qちゃんは4、5日何も食べていない。ところがマスコミに公開する試走のスケジュールが決まっていた。医者には試走を止められたけど、これで走らなかったら大騒ぎになる。 そこでサトウキビ畑の中を二人で歩きながら、「Qちゃん、小出も経験がある。一週間、何も食べない状態で走ったことがあるんだ。 大丈夫、人間には精神力という素晴らしいものがあるんだから」と励ましました。

結局、準備不足のまま名古屋国際を走ったけれど、Qちゃんは見事に優勝。しかも最後の10キロは世界記録ですから。すごい! と思いましたね。
1万本の糸からなる、糸の束があるとします。その糸が、1本、1本、切れていく。全部切れたら終わりだけど、最後の1本がある限り、諦めちゃいけないんだね。 監督やコーチは、夢を持ったら、耐えて、耐えて、耐え抜かなくてはいけないんだって、改めて思い知らされた。Qちゃんから教えられたね。

故障があると、選手は精神的に動揺する。そういうとき、監督の言葉が大事でね、Qちゃんが怪我をして世界陸上選手権に出られなかったとき、こう言ったんです。 「悔しいかもしれない。でも『せっかく』故障したんだよ。今、それをふりきって出たら、もっとひどくなってオリンピックに出られなくなる。 せっかく故障したんだから、ここでゆっくり休めばオリンピックに出られるって、お天道様が言ってるんだよ」って。教員時代にも、子どもたちが卒業するとき、必ず言っていました。 「『せっかく』という言葉を覚えておけ」と。

小出義雄さん2 そんなわけでQちゃんには、シドニー・オリンピックでなんとしても金を獲らせたかった。ところが前年のセビリアでの世界大会を、棄権しています。原因を考えると、夏が暑かったから。 コロラド州の標高1600メートルくらいのところにアパートを借りていたけれど、暑い上に虫にも刺されて、寝不足だったんだね。これではいけない。 そうだ、コロラドに家を買おう! そう思って探していたら、ちょうどいい物件があってね。間取りを見たら、北側に大きな部屋があるので、そこをQちゃんの寝室にしたらよく眠れるだろうなと思って。 みんな反対しましたよ。でも僕はどうしても金メダルがほしいから、いいと思えることはすべてやりたい。それで女房に内緒で銀行からお金を借りて、家を買うことにしたんです。

そうしたら数日後、女房から電話がかかってきて、すごく怒っている。
「何かあったか?」
「何かあったじゃないわよ。お金借りたの?」
「うん少し」
たくさんと言うと、もっと怒ると思ってね(笑)。なんと測量士と銀行員が家に来て、家屋敷が全部担保に入っちゃったらしい(笑)。 結局、Qちゃんは金メダルを獲った。48歳の時に思い描いた夢は、叶ったんだ。



撮影:和田直樹(タイトル/インタビューカット)

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夢さえあれば 5

80まで叶えたい新たな夢

小出義雄さん1 金メダルという夢が叶い、次は何をしよう。そう思ったときに閃いたのが、一般の人に走る喜びを知ってもらおう、ということだった。 今の日本、胃の弱い人、なんとなく体調がすぐれない人が大勢いる。そういう人も運動をすると、健康を取り戻し、10歳くらいは若返る。 毛細血管がどんどん発達して、筋力がつき、心肺機能がよくなるから。走るだけならジムに行かなくてもいいし、誰でもすぐできるからいいよと、みんなに教えたかった。

そのためには、大衆マラソンをやれば、みんな走りたくなるんじゃないか。ボストンやニューヨーク、ロンドンとか世界の主要都市で、3万人、4万人が参加するマラソンをやっている。 でも日本にはそれがない。5万人集めて銀座を走らせたいと何年も言い続けてきたけれど、誰に言ってもできないと言われてしまう。 あるとき、石原都知事に会う機会があったので、ぜひやりたいと提言させていただいた。そしてついに、東京マラソンも実現した。

今、一般のジョガーに向けてインターネットを通じて「小出道場」を運営しているんだけど、一般会員が12000人います。無料登録もできるみたい。みんな、走る喜びに目覚めた人たちですよ。
小出道場 僕は18、19歳の時に、「陸上では飯が食えないから諦めろ。」と、周りのみんなから言われたんです。でも僕は走るのが好きだから、辞められなかった。 そうしたら、こういう時代になった。前へ、前へと見ていたら、必ずいいことがあるという強い願望を持っていると、そこに近づける。 だから小学生や中学生の子どもたちと話す機会があると「いいか、毎日、30歳になったときはこうだ。40歳のときはこうだと、頭の中で幸せになる絵を描け。きちんとした願望を持て」と言うんです。

そんな僕だけど、たまには、あの時の判断は間違っていたと後悔することがあるんだね。2001年、Qちゃんがベルリン国際マラソンで世界記録を出し、その1週間後にシカゴで走ると言っていた。 ところが陸連の幹部から、高橋は国の宝だから、ぜったいに走らせるな、と止められた。監督は僕ですよと言ったけれど聞いてもらえなかったし、Qちゃんまで怒られてしまって。 それで彼女は断念したわけ。それなのに結局、次のオリンピック代表に選ばれなかったんだ。

小出義雄さん2 あのとき僕は勇気を出して、「いいよ、走っちゃえ」と言って走らせればよかった。Qちゃんも後悔しているだろうけれど、僕も、ものすごく後悔している。 本当に申し訳なかった、そう思いますよ。今年、Qちゃんは11月の東京国際、来年1月の大阪国際、3月の名古屋国際に連続出場することを決めたね。「よし、頑張れ」と、心から応援したい。

僕も、70歳直前の69。10年たてば80歳。次のオリンピックは、東京に来るか、アメリカ、ブラジル、スペインのどこかに行くか。そのときには僕も監督を引退していてもいい年だね。 ただここにきて、死ぬ前にもう1つ金メダルを獲りたいという夢が沸いてきて。今預かっている子たちは、次のオリンピックには間に合わないとなると、次の次。 79歳まで監督でいるためには、よほど節制しないといけない。それまでに死んじゃうかもしれないからね。だから今、心臓を焼酎で鍛えている(笑)。 医者からはお酒を止められているんだけどね。死んでからは飲めない。生きている間しか、飲めないからって言って(笑)。人間、いつ死ぬかわからない。だから、好きなことをやっていればいいんだ。

飲んでいる間は、陸上のことを忘れているかというと冗談じゃない。選手にもコーチにも、いつも言っている。飲んでいるときも、寝ているときも、陸上のことを忘れちゃいけない。 寝ている間、忘れているくらいだったら、金メダルは獲れない。僕は寝言で「何分何秒」とか「バカヤロウ、そんなことじゃダメだ」とか言っているらしい。とにかく好きなんだね、かけっこが。



プロフィール

小出 義雄(こいで よしお)
1939年、千葉県生まれ。監督として、有森裕子を92年バルセロナオリンピック銀メダル、96年アトランタオリンピック銅メダルに、鈴木博美を97年世界陸上選手権金メダルに、また、高橋尚子を2000年シドニーオリンピック金メダルへと導き、世界の女子マラソン史に残るアスリートを育て上げた。
高校卒業後、一度は実家の農業を継ぐが、陸上への想いを捨てきれず家を飛び出し、順天堂大学へ入学。箱根駅伝3年連続出場などで活躍。大学卒業後、指導者の道へ進み、23年間高校教師として陸上部の指導を続ける。市立船橋高校監督として高校駅伝優勝。88年リクルートランニングクラブ監督に就任。全日本実業団女子駅伝2連覇。97〜'02年積水化学女子陸上部監督就任。現在、佐倉アスリートクラブ(株)で社長兼現場監督。


撮影:和田直樹(インタビューカット)

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