一休な宿泊

story1 story2 story3 story4
記憶に残るスケーターになりたい 2

お手本は伊藤みどりさん

初めてスケート靴を履いたのは3歳。兄と姉が先にスケートを始めていたので、ついて行って一緒に楽しむ、という感じでした。 母はスケートが大好きだったので、誰か一人でもフィギュアスケート選手になってくれたらいいな、と思っていたんでしょうね。 6歳から本格的にやり始めたんですが、その頃は、滑ることが楽しくて楽しくてしようがなかったんです。

小学校入学と同時に、伊藤みどりさんのコーチだった山田満知子先生につきました。家が名古屋市内ではなかったので、スケートリンクまで通うのに1時間かかります。 学校が終わると、毎日車で母に送り迎えしてもらいました。

中野友加里さん1 他のどのスポーツも同じと思いますが、小さい頃は覚えが早いんですよ。体にどんどん染み込んでいき、どんどん上達していく。 フィギュアスケートは技の種類が多いので、それを一つひとつ習得していくたびに、おもしろさが増していく。これができたら次にいける、という達成感や面白さから、 どんどんのめりこんだんだと思います。ひたすらスケートに夢中で、遊びたいと考えたこともなかったですね。もちろん小さい頃は、滑るのがイヤな日もありました。 でも母から「滑りなさい」と言われると、滑っていましたね。

競技会には、小学校1年生のときから出ていました。初出場のときの成績は4位。同じ年の子がメダルを取ったのが、すごく羨ましくて。「次は私も取りたい」という気持ちになりました。 「これを取ったら次は……」と、さらに上を狙いたくなる。いろいろな試合に出してもらい、選んでいただいて、とても感謝しています。 体型が変わる時期は大変でした。中学に入ったときからお弁当でしたが、中学3年のころから身長が伸びるのが止まり、太り気味になって。母もすごく気を遣って、ヘルシーなお弁当を作ってくれました。 母も必死だったと思います。本当に家族の協力なしにはできない競技ですね。

当時の名古屋は、フィギュアスケートには、決して恵まれた環境ではありませんでした。それなのに、フィギュアの世界は名古屋出身の選手が多いんです。 「なぜ名古屋の選手はこんなに強いのか」とよく聞かれますが、環境が悪かったからこそ、みんな強くなったんだと思います。恵まれていると、いつでも練習できると安心してしまい、つい甘える。 かえって練習しなくなる気がします。でも条件が厳しくて、限られた時間しか練習できないと、みんな必死で練習するんですよ。だからこそ、強くなったんだと思います。

中野友加里さん1 私にとって何よりも大きかったのは、伊藤みどりさんという素晴らしい先輩が目の前にいらしたことです。すぐそばで練習していたので、いいお手本になりました。 フィギュアスケートは目で吸収することも多いので、その点ではものすごく恵まれていましたね。天才的なスケーターなので、本当に目が点になるくらい素晴らしかったです。

みどりさんはいつも、「元気?」「調子はどう?」とか、声をかけてくださるんです。それがすごく嬉しかったですね。「コツとかありますか?」と聞くと、丁寧に返してくださるし。 憧れの方が身近な存在だったことは、本当に大きな幸せです。




中野友加里(なかの ゆかり)
1985年、愛知県生まれ。日本を代表する女子フィギュアスケート選手。6歳でフィギュアスケートを始め、ジュニア時代から世界ジュニア選手権2位など、華々しい成績を残している。02年、シニアに移行し初の全日本予選で、伊藤みどり以来10年ぶり・史上3人目となる公式戦でのトリプルアクセル(3回転半)に成功。ドーナツスピンの美しさにも定評がある。
05年、NHK杯でGPシリーズ初制覇。06年、四大陸選手権2位、同年初出場の世界選手権にて5位と健闘。実力者として頭角を現し、世界的スケーターとなったことから『シンデレラガール』と称されるようになった。07年、冬季アジア大会優勝。全日本選手権にて3位を獲得し、08年3月世界選手権では今季自己ベストの演技で4位と健闘した。今後も活躍が期待される。


Photographs by 稲垣純也(タイトル/インタビューカット)




もどる


eTBT
思い出特派員