
最後のオリンピック
現役をやめてコーチを1年つとめ、その後、解説者になって9年目になります。コーチの1年は、思うようなことができなかったので、悔いが残っています。それまで広島カープしか見えなかったのが、解説者になると、外から野球全体を見ることができる。いい経験を積ませてもらっています。
僕はカープの印象が強いので、解説者になりたての頃は、他チームの選手との間になんとなく壁を感じました。それも徐々になくなり、選手やコーチといい感じで触れ合えるようになってきました。
そういう積み重ねのなかで、アテネオリンピックの投手コーチとして要請を受け、今回、北京でも声をかけていただいたわけです。スタッフの一員として、精一杯つとめたいですね。
僕がやるべきことは、投手コーチとして、負けない野球を目指すこと。負けないために投手は何ができればいいかというと、点を取られないことに尽きます。
極力それに近づけていかなくてはいけない。
やはり目標は、一番いい色のメダルを取ることです。簡単にはいかないでしょうけれど、世間もそれを望んでいるし、われわれもその気持ちで臨んでいます。
僕は自分のことを、「野球人」であると考えたくありません。野球が好きで、野球でお金もらっているという考えはイヤなんです。あくまで社会人として、野球という職業を選んだと思っています。
自分の仕事として捉えたら、責任感や自覚も生まれてくるし、何をなすべきか、自分のすべきことを真剣に考る姿勢になる。選手であれ解説者であれコーチであれ、その気持ちは変わりません。
北京以降のことは、今はまったく考えられないですね。ただ現場を離れて9年目、そろそろ現場に戻りたい気持ちもあります。今までもお話は、いくつかありました。
でもアテネの後は精神的にもクタクタで、すぐ現場に戻る気持ちになれませんでした。“金”を獲っていたら、違ったかもしれませんが、負けて現場に戻り、
「さぁ頑張ってやろう」という気持ちにはなれなかったんです。
広島カープで22年間選手をやらせていただいて、1年コーチをやりました。本音を言えば、もう1度カープでユニフォームを着たい思いもあります。
来年は新球場になるし、10年連続Bクラスで低迷していますから、なんとかしたい。
北京を最後に、オリンピックから野球という競技がなくなります。最後の試合ですから、結果を出したいですね。オリンピックからなくなるのは、本当に寂しいですよ。
僕らは将来的には復活してほしいという思いを強く持っていますし、そのためにも頑張らなくてはいけない。結果を出したいと願っています。
同時に裾野を広げる活動も、やっていきたい。野球の素晴らしさを、多くの子どもたちにもっと知ってもらいたい。その思いから、定期的に子どもたちとの触れあいの場を持っています。
長崎でも大野豊杯を設けて野球大会をしていますし、故郷でも十年以上、自分の名前のついた野球大会を続けています。一時は子どもたちの間で、野球よりサッカーの人気が高かったのですが、
最近メジャーが身近になって、また野球の人気が出てきました。年俸にばかり注目がいくのも、ちょっと問題だとは思いますが、野球に憧れる子どもが増えるといいですね。
今は僕らが子どもだった頃のように、野原に集まって野球を楽しむ時代ではありません。どこかのチームに入って、家族の協力なしでは、なかなかやっていけない。
僕は「子どもには家族の協力は必要ですけど、あまり押しつけて子供が伸び伸びできない状況だけはつくらないでほしい」とよく言います。
今の子どもたちは、恵まれています。いろいろなものも与えられて、場所も提供されて、そのなかで好きなことができるわけです。
せっかくのチャンスを、ぜひとも有効に使ってもらいたいですね。

大野 豊(おおの ゆたか)
1955年、島根県生まれ。元広島東洋カープ・プロ野球選手(投手)。高校卒業後、地元の出雲信用組合に就職するが、当時の広島東洋カープ打撃コーチ・山本一義、主戦投手・池谷公次郎の講演を聞き、プロ入りを決意。1977年、軟式野球部出身という異色の経歴で広島へ入団する。入団1年目はプロの洗礼を浴び、思わしくない結果に終わったが、2年目には初完封勝利も達成した。以後22年にわたり広島黄金期を支えるエース・守護神として活躍した。98年の引退後も、野球解説・野球評論家を努める一方で、04年にはアテネ五輪の日本代表コーチとして銅メダル獲得に大きく貢献した。2007年に北京オリンピック野球日本代表投手コーチに就任。






