一休な宿泊

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北京五輪への道 3

引退を決めた一球

引退を決めた瞬間のことは、今もはっきり覚えています。1998年8月4日の読売ジャイアンツ戦で、高橋由伸選手に逆転3ランを打たれました。 そのとき、「これで2度とマウンドに立つことはないな」という気持ちになったんです。

大野豊さん1 自分はとんでもないスタートをきって、プロ野球選手になり、いろいろな成績は残してきましたが、ボロボロになって辞めよう。 それまでワンポイントでもいいから、下からでも横からでも、とにかく投げて、プロの世界でやってみよう。ずっと、そういう気持ちでいたんです。 でもやっぱり、自分のなかで許せないものってあるんですね。

その前に一度、6月の段階で、辞めようと思ったことがありました。血行障害という持病があり、41歳のときに手術をしました。 その後、投げられるようになり、42歳にして防御率でタイトルを取らせていただいた。ところが43歳で病気が再発したんです。 2度目でしたから、再発だとすぐにわかりました。「あぁ、きたな」と。それで辞めようと思ったのです。

しかし治療を勧められ、治療後7月末に1軍にあがってリリーフで投げ出すんですが、自分の満足したボールがもう投げられない。イメージのなかでは、 「このフォームでこのタイミングでこうボールを離せば、ボールが投げきれる」と思っても、指先にかからない。滑るようなボールしか投げられないんです。自分の場合、 キャンプから投げ込んで、血豆を作って、それがむけて、また血豆を作って、むけて……と繰り返す。指先がタコの吸盤みたいになり、指先にボールの縫い目がかかって、 「ボールを切る」という意識で放します。

ところが血行障害になってからは血豆もできなくなり、投げても投げても、指先にかからない。そういうボールしか投げられない自分が、プロとして恥ずかしかった。 ただ、辞める大きなきっかけがほしかったんですね。そのなかで、8月4日の高橋のホームラン。「あ、これで気持ちよく辞められる」と感じました。

大野豊さん2 打たれてチームは負けたわけですから、申し訳ないとは思いましたが、意外と僕自身はすっきりしていました。チーム最年長ですから、ベンチに戻っても、 みんなは気の毒でなんと声をかけたらいいかわからないという雰囲気です。でも僕は、晴れやかな気分だった。あの一球が、「これでユニフォームを脱げる」 という気持ちにしてくれました。

9月27日、広島市民球場での試合後、引退式に臨みました。本当に晴れ晴れとした気分で、「我が選んだ道に悔いはなし」と宣言することができた。 その場では状況がわからなかったのですが、後になってXTRを見ると、広島のファンのみならず対戦相手の横浜ベイスターズのファンのみなさんも、 惜しみない拍手と声援を送ってくれました。スタートはとんでもなかったけれど、自分なりに積み重ねてきたものが、あの引退試合につながったので、 決してそれまでやってきたことは間違ってはいなかった。「やり終えた、やり遂げた、満足できる現役生活だった」と実感した瞬間でした。




大野 豊(おおの ゆたか)
1955年、島根県生まれ。元広島東洋カープ・プロ野球選手(投手)。高校卒業後、地元の出雲信用組合に就職するが、当時の広島東洋カープ打撃コーチ・山本一義、主戦投手・池谷公次郎の講演を聞き、プロ入りを決意。1977年、軟式野球部出身という異色の経歴で広島へ入団する。入団1年目はプロの洗礼を浴び、思わしくない結果に終わったが、2年目には初完封勝利も達成した。以後22年にわたり広島黄金期を支えるエース・守護神として活躍した。98年の引退後も、野球解説・野球評論家を努める一方で、04年にはアテネ五輪の日本代表コーチとして銅メダル獲得に大きく貢献した。2007年に北京オリンピック野球日本代表投手コーチに就任。


Photographs by 和田直樹(タイトル/インタビューカット)




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