
モータースポーツをもっと広めたい
日本のモータースポーツは、興行も含めて、まだうまくまわっていない気がします。そこを変えていかなくてはいけないと思っています。レースをテレビで放映し、もっと多くの人に、興味を持ってもらいたい。
そのために、僕ができることはないだろうか。2003年にレース中の事故で亡くなった加藤大治郎とは、そんなことを熱く語り合っていました。
大治郎はオートバイの250ccクラスで、世界チャンピオンに上り詰めた、日本のトップレーサーです。二輪と四輪の違いはあるけれど、僕たちは本当によきライバルでした。
大治郎と初めて会ったのは、僕が9歳、彼がまだ3歳の頃。ポケットバイクに乗りにきましたが、1周ずっと足をついて、「鳩ぽっぽ」を歌いながら乗っていました。
言葉もまだ、たどたどしくて、半端じゃないかわいさでしたよ。レーサーになってからは、独身時代も、お互い結婚してからも、ずっと同じマンションに住んでいました。
ある意味では、家族以上のつきあいかもしれません。
あの日のことは、今もよく覚えています。僕は富士でレースがあり、彼は鈴鹿でmotoGPの世界選手権に出ていました。
motoGPはテレビ放映もするので、僕がレースに出る直前に、大治郎が転んでヘリで運ばれたという情報を知ってしまったんです。
僕はレースでスタートを切ってしばらくしてから、突然、「あっ、ダメだ」とわかった。第六感なんでしょうか。一刻も早く病院に行きたかったので、早くレースを終わらせたい。
自分が速く走れば早く終わるという思いで、とにかく全力で走りました。
優勝の記者会見の途中で、星野一義さんが「もういいから行け」と言ってくれました。それから2週間ほど命が続いたんですが、その間ずっと病院にいました。
大治郎みたいにリスクの少ない、安全できれいな走り方をする人間でも、一瞬の状況でああいうことが起こるのか、と。
大治郎の死後、彼のファンから、「大ちゃんの分も頑張ってください」と言われました。世界のトップレベルにいた人の分まで引き受けるのは無理なんだけど、必死で頑張って、
その年は全日本GT選手権とフォーミュラ・ニッポンの両方でチャンピオンをとりました。あのときは、もう日本でやることはないと思い、本格的にF1に行こうと考えました。叶いませんでしたが……。
でも、大治郎と熱く語り合っていた夢は、実現させるために頑張っています。亡くなるちょっと前から、子どもたちにいろいろなレースを経験させる環境を作る話を2人で進めていたんです。
お互いに結婚して、子どもが生まれたので、そういう発想が生まれたんでしょうね。子ども連れでサーキットに応援に来てくれるファミリーも増えてきて、子どもたちに夢を与えたいと思いました。
僕たちがポケットバイクのレースをやっていた頃、大きな自動車のレースや本物のオートバイのレースを見る機会は、ほとんどありませんでした。
そういう機会を作ることで、モータースポーツを好きになる子どもが増えればいいと、よく話していたんです。日本のモータースポーツ界を代表する人間として、
責任を感じて活動をしていかなくてはいけないよね、と。
これからは、レースに出場する以外に、モータースポーツの魅力をより多くの人に伝える活動にも力を入れていきたいんです。今の時点では、誰かを走らせるためのチームを持ちたいとは思いません。
今年はNISSAN GT-Rで走ることになるでしょうね。鈴鹿で乗ってみましたが、サーキットで走るには完璧。いや、完璧以上に素晴らしい。あんなに速い車は、他にないんじゃないかな。
中身を考えたら、あの値段は安いですよ。2000万円くらいの価値はあると思います。
プライベートでは、タクシーを使うことが多いですね(笑)。車を何台か持っていた時もありますけど、そうそう乗る機会がありません。たまに乗ると、洗車しなきゃいけなかったり、バッテリーがあがっていたり。
恥ずかしい話ですよね。(笑)

本山哲(もとやま さとし)
1971年、東京都生まれ。両親がレーシングカートのサーキット場、サーキット秋ヶ瀬を経営していたことから、幼少時よりポケバイやレーシングカートに親しみ育つ。1984年、13歳でSLカート全国大会・Aクラスで初優勝。高校卒業後カーレーサーの道へ進み、1998年、2001年、2003年、2005年の全日本選手権フォーミュラー・ニッポンおよび、2003年、2004年の全日本GT選手権・GT500クラスで優勝。名実ともに「日本一速い男」の称号を獲得する。今後も活躍が期待される。
本山哲 オフィシャルサイト






