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疾走する魂 1

レーサーになったきっかけ

本山哲さん2 9歳のとき、4歳上の兄がポケットバイクと呼ばれる小さなオートバイのレースを始めたのがきっかけになりました。週末になると、両親は兄を連れてバイクで走りに行く。 僕は小学校3年生なので、一人で家にいるわけにはいかず、仕方なくついていく。自転車は好きで、乗り回していたけれど、エンジンのついた乗り物は怖かった。 音も大きいし、ガソリンの匂いもイヤでしたね。僕は興味がないので、なるべく離れた場所を選んで、端っこのほうで石を投げたり、草をむしったりしていました。(笑)

見かねた大人たちが、なんとか僕をポケットバイクに乗せようと試みて、あるとき、足をつきながら乗ってみたんです。 初めてだから当然、すごく下手なんですが、まわりは乗せたいから「うまかったね」と褒めてくれる。 褒められたら嬉しいから、じゃあ、もう1周、乗ってみようか、としだいにポケットバイクに乗るようになりました。 始めて1、2年すると、みんなよりも少し早く走れるかも、と気がついたんですよ。それからですね、レースが面白くなってきたのは。

最初は荒川河川敷にある公園の駐車場で走っていましたが、そのうち駐車場がなくなってしまいました。 親が中心となり、一緒にレースをしていた仲間たちが協力しあって、手作りでサーキット場を作りました。

本山哲さん2 すごく真剣なレースでした。うちの親も含めて、まわりの親たちも熱心だし、レベルの高いレースだった。 当時、一緒にレースに出ていた子どもたちのなかには、後にオートバイのレーシングドライバーとしてトップに上り詰めた人もいます。

初めてカートに乗ったのは12歳。ポケットバイクの仲間の一人が、先にカートを始めて、誘われて……。本当はバイクのほうが好きなのに、親父がカートを買ってきたし、 乗らなくてはいけない羽目になってしまった(笑)。自分の意志で乗ったわけじゃないんです。スピンしても、オートバイと違って転ばないので、「けっこう簡単かも」というのが最初の印象でした。

ポケットバイクでレースにはけっこう慣れていたし、早く走るという感覚もわかっていたので、馴染むのは早かったですね。最初の1年くらいはダメでしたが、徐々に成績が出るようになってきました。 当時、カートの全日本選手権は16歳からという制限があったので、それまで待って16歳で初参加。4年間出場、3回、日本でチャンピオンになりました。賞金ももらえるし、スポンサーもつきました。 頑張った分、収入が得られるとわかって、たまに学校にタクシーで行ってみたり……。(笑)

高校3年になると、就職か進学かを選択しなくてはいけません。カートレースに熱中していて、ほとんど勉強していないので、大学受験は無理です。 だからといって、普通の企業に就職すると、今までやってきたのが活かせない気がしました。 自分が持っている能力のなかで一番得意なことを、もっと伸ばしていけば仕事になる、レーサーの道に進むのが一番だろう、と思いました。そこにすべてを賭けて頑張ろう、と決めました。



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疾走する魂 2

叶わなかったF1への道

本山哲さん2 19歳のとき、自動車レースの世界から声がかかりました。18歳で普通免許を取得し、買ったのはオートマ車(笑)。 カートはギアがないし、ギアつきの車には乗ったことがなかったので、慌ててギアつきの小さな車を買いました。(笑)

車のスピードへの恐怖は、最初からまったくなかったですね。それより、当時のレース環境というか、独特の縦社会に馴染めませんでした。

今はどんなスポーツでも、若手を育てようという空気がありますが、その頃は若い人間は優遇されなかった。特にレースの世界はそうでした。 僕の場合、カートでかなり経験があるので、レース用の車に乗っても最初からある程度走れます。3回チャンピオンになったという自信もある。 でも、まわりはそれを認めようとはしないんですよ。19歳の僕が、「車がこういうふうに調子悪い」とか「エンジンがどうだ」と言っても、「何言ってるんだ!」と、 聞いてもらえない。この生意気な若造が、という感じなんです。そういう社会でやっていく状況がしんどかった。 請われてそのチームに入ったのに、なんで怒られたり、邪険に扱われなきゃいけないのか、とも思いました。 僕も突っ張っていたんでしょうね。必要以上に頭を下げたりはしませんでした。

本山哲さん2 F3という最初のカテゴリーは、普通、それなりに力があれば2、3年で卒業できます。ところが僕は6年もかかった。 ひとつには、レースのシステムをどう捉えたらいいのかわからなかったからです。

こんなこともありました。「1レース200万円」と言われたので、そんなにもらえるのかと思って「ありがとうございます」と言ったら、 話しているうちに僕に200万円払え、と言っているのに気づいたんです。

車のレースは、チームにお金を持ち込んで走る。それが当時のレース世界の常識だったらしいんですけど、僕は納得がいかなかった。 「うちの会社に来てくれ」とお願いされて、なんでこちらが払わなくてはいけないんだって。

話の途中で、テーブル叩いて帰ってきたこともあります。もちろん相手も怒っていたようですけどね。 失礼な若造だって。そんなわけで、なかなかいいチームで走れなかった。いいチームで走らないと、結局、成績も出ないんですよ。当時はすごく、ジレンマがありました。

本山哲さん3 自分でスポンサーを見つけて、お金を持っていいチームに入れば、やっぱりいい成績が出る。今考えれば、そういう方法をとっていれば、 もっと早くステップアップできたかなとも思います。でも僕は、納得がいかないことはできない性分だから、遠回りしたかもしれないけれど、悪かったとは思っていません。

フォーミュラ・ニッポンに出たのは96年からです。3年目でチャンピオンになりました。実は16歳ですでに確信していたんです。自分は速くなれるって。 なぜ確信を持っていたのか、言葉にするのは難しいのですが、いつか必ずなれると信じていました。その確信が現実のものとなり、まわりからも認めてもらえ、大きな満足感も得ました。

当然、次は海外で、と思いました。実際、98年から2000年にかけて毎年F1の話は来ていましたが、当時で2億、3億のお金を持っていくことが必要だった。 毎年、交渉もしましたが、なかなか話がまとまらなくて。いろいろな人が近づいてきて、収集つかなくなってしまったんです。(笑)

今考えれば、なんとかしてお金を作ればよかったのかもしれませんが、そのときの選択に後悔はしていません。時代とタイミングには逆らえませんから。 その結果、今の自分が不幸かと言えば、決してそうではない。だったら、行かなかったことも、もしかしたらよかったのかもしれませんから。
何が正解で、何が不正解かは、なかなか決められるものではないんですね。いつをゴールとするかも難しい。今なのか、5年後なのか、死ぬときなのか。 これから先、まだまだ人生がある、そう考えたとき、F1に1回行くか行かないかは、たいしたことじゃないとも思います。



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疾走する魂 3

プロであることの喜びと苦しみ

本山哲さん2 基本的にレースは、「より速く走る」「勝つ」という明確な目標があります。レースで勝つためには、何が必要かというと、半分は持って生まれた才能と感覚だと思います。 レースに限らず、なんでもそうでしょう。料理も、どうやっても下手な人もいるけれど、最初からなんとなく上手にできる人もいます。 適性と言ってもいいかもしれません。残りの半分は、徹底的な努力と、頭を使ってどうすればいいのかを考えることです。

レースは、一見個人競技のようですが、実は団体競技です。走っているのは僕一人ですけど、メカニックが何人もいて、チームスタッフも何人もいる。 スポンサー関連の人もいれると、50人〜100人でチームが成り立っています。そのグループをうまく機能させるために大事なのはコミュニケーションです。 それは20代後半になるまで、気づかなかったことでした。

それまでは、自分さえ頑張ればなんとかなると思っていました。でも、僕の力だけでは、勝つことができない。 たとえばメカニックの誰か一人がほんのわずか失敗したら、レースは勝てない。同じ目標に向かって、それぞれのチームメンバーが、 持っている力を最大に出し切ることが何より重要なんです。それがわかったのは、大人になった、ということでしょうね。

本山哲さん2 コミュニケーションがうまくとれると、チームのメンバーや協力してくれる人たちが、より前向きに仕事をしてくれます。わずかな違いのようですが、 その違いは実はすごく大きいんですよ。結果も違ってきます。そのことに気づく前は、僕だけが大変な思いをしているという意識だったからストレスばかり増えていました。 それが、みんなに頑張ってもらい、僕がみんなに頼れると、楽になる部分も出てきて可能性も広がります。

まわりの人たちのことを考えられるようになり、確かにやりやすくなりました。ただ僕自身、いろいろなことを感じ取りやすいほうなので、 10人いたら10人の気持ちをなんとなく察してしまう。大人になったらなったで、気を遣うという“仕事”が増えてしまった(笑)。 でも、面白いですね。それまでは車だけを相手にしてきたけれど、人のことを考えるようになると、違う面白さがあります。

グループにリーダーがいないときは、僕が率先して、そういう存在になっていかないといけません。リーダーに必要なのは、絶対的な力と強さ。 もっとも僕は走るのがメインなので、決してリーダーになりたいわけじゃないんですよ。

僕はどちらかというと、安全な範囲で、きれいに走るほうなので、危険については、あまり気にしません。 最高瞬間速度は310キロくらいのレースの最中は、他の車との相対速度ですから、それほどスピードを意識はしないんです。

本山哲さん3 最近のマシーンはコンピュータとつながっているので、常に情報を冷静に判断しなくてはいけない。走行データもコンピュータですから、その分析ができないと結果が出せません。 感性だけではやっていられないんです。クールな部分がないと、今の時代は通用しないでしょうね。

順位と結果しかない世界で生きていくためには、精神の安定や、自分を信じる力も必要です。もちろん、プレッシャーもあります。 僕を応援してくれている人たちは、誰よりも速く走ると信じているし、失敗せずにいい成績を出せると思って見ているわけです。 人間、失敗しないと思われているほど、つらいものはないですよ。(笑)

最初に優勝したときは、まわりの反応も大きいし、自分もそこを目指してきたわけですからものすごく嬉しい。 問題は、その後です。1番をキープするのは、どれほど大変かということです。1度1番になってしまうと、それが基準になってしまいます。 勝っても当たり前だと思われる。1番になっても、ほっとするくらいで、大きな喜びは感じないですね。むしろ、苦しみのほうが増えていきます。 好きで始めたことなのに、仕事になった時点で、義務になってしまいます。勝つことさえ、義務になるわけですから。

たまに誘われてラジコンのレースをやると、緊張して手が震えます。そういうとき、ただ“好き”という気持ちだけで走っていた、純粋だった頃を思い出します。 そして、「最近、楽しめてないな」と気づくんですよ。でも僕には、力が続く限り走り続ける責任がある。それが、“プロ”だと思います。



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疾走する魂 3

モータースポーツをもっと広めたい

本山哲さん2 日本のモータースポーツは、興行も含めて、まだうまくまわっていない気がします。そこを変えていかなくてはいけないと思っています。レースをテレビで放映し、もっと多くの人に、興味を持ってもらいたい。 そのために、僕ができることはないだろうか。2003年にレース中の事故で亡くなった加藤大治郎とは、そんなことを熱く語り合っていました。 大治郎はオートバイの250ccクラスで、世界チャンピオンに上り詰めた、日本のトップレーサーです。二輪と四輪の違いはあるけれど、僕たちは本当によきライバルでした。

大治郎と初めて会ったのは、僕が9歳、彼がまだ3歳の頃。ポケットバイクに乗りにきましたが、1周ずっと足をついて、「鳩ぽっぽ」を歌いながら乗っていました。 言葉もまだ、たどたどしくて、半端じゃないかわいさでしたよ。レーサーになってからは、独身時代も、お互い結婚してからも、ずっと同じマンションに住んでいました。 ある意味では、家族以上のつきあいかもしれません。

あの日のことは、今もよく覚えています。僕は富士でレースがあり、彼は鈴鹿でmotoGPの世界選手権に出ていました。 motoGPはテレビ放映もするので、僕がレースに出る直前に、大治郎が転んでヘリで運ばれたという情報を知ってしまったんです。

本山哲さん2 僕はレースでスタートを切ってしばらくしてから、突然、「あっ、ダメだ」とわかった。第六感なんでしょうか。一刻も早く病院に行きたかったので、早くレースを終わらせたい。 自分が速く走れば早く終わるという思いで、とにかく全力で走りました。

優勝の記者会見の途中で、星野一義さんが「もういいから行け」と言ってくれました。それから2週間ほど命が続いたんですが、その間ずっと病院にいました。 大治郎みたいにリスクの少ない、安全できれいな走り方をする人間でも、一瞬の状況でああいうことが起こるのか、と。

大治郎の死後、彼のファンから、「大ちゃんの分も頑張ってください」と言われました。世界のトップレベルにいた人の分まで引き受けるのは無理なんだけど、必死で頑張って、 その年は全日本GT選手権とフォーミュラ・ニッポンの両方でチャンピオンをとりました。あのときは、もう日本でやることはないと思い、本格的にF1に行こうと考えました。叶いませんでしたが……。

でも、大治郎と熱く語り合っていた夢は、実現させるために頑張っています。亡くなるちょっと前から、子どもたちにいろいろなレースを経験させる環境を作る話を2人で進めていたんです。 お互いに結婚して、子どもが生まれたので、そういう発想が生まれたんでしょうね。子ども連れでサーキットに応援に来てくれるファミリーも増えてきて、子どもたちに夢を与えたいと思いました。

本山哲さん3 僕たちがポケットバイクのレースをやっていた頃、大きな自動車のレースや本物のオートバイのレースを見る機会は、ほとんどありませんでした。 そういう機会を作ることで、モータースポーツを好きになる子どもが増えればいいと、よく話していたんです。日本のモータースポーツ界を代表する人間として、 責任を感じて活動をしていかなくてはいけないよね、と。
これからは、レースに出場する以外に、モータースポーツの魅力をより多くの人に伝える活動にも力を入れていきたいんです。今の時点では、誰かを走らせるためのチームを持ちたいとは思いません。

今年はNISSAN GT-Rで走ることになるでしょうね。鈴鹿で乗ってみましたが、サーキットで走るには完璧。いや、完璧以上に素晴らしい。あんなに速い車は、他にないんじゃないかな。 中身を考えたら、あの値段は安いですよ。2000万円くらいの価値はあると思います。

プライベートでは、タクシーを使うことが多いですね(笑)。車を何台か持っていた時もありますけど、そうそう乗る機会がありません。たまに乗ると、洗車しなきゃいけなかったり、バッテリーがあがっていたり。 恥ずかしい話ですよね。(笑)



本山哲(もとやま さとし)
1971年、東京都生まれ。両親がレーシングカートのサーキット場、サーキット秋ヶ瀬を経営していたことから、幼少時よりポケバイやレーシングカートに親しみ育つ。1984年、13歳でSLカート全国大会・Aクラスで初優勝。高校卒業後カーレーサーの道へ進み、1998年、2001年、2003年、2005年の全日本選手権フォーミュラー・ニッポンおよび、2003年、2004年の全日本GT選手権・GT500クラスで優勝。名実ともに「日本一速い男」の称号を獲得する。今後も活躍が期待される。
本山哲 オフィシャルサイト





 
 

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