
世界で一番に
昨年は東京マラソン、ボストンマラソン、ベルリンマラソンで優勝しました。世界陸上で銀メダル、最近はいい成績ですが、ここにくるまでは遠い道のりだったと思っています。
怪我をしたのが13年前、24歳のときです。車椅子マラソンの競技を始めたのはその2年後なので、実質11年くらいかかっています。
最初は競技用の車椅子を転がすことすら、難しかったですから。
怪我をして車椅子になった直後、まずバスケットボールを始めました。障害者がスポーツに取り組む場合、最初はバスケットから入る人が多いんですよ。
僕もその当時、車椅子でもあんなに激しく動けることが楽しくて、夢中になりました。
でもバスケットは5人そろわないと試合ができないし、練習は体育館でやらなくてはいけない。時間や人数によって制限されます。
それに試合で負けると、アイツがあそこであれをしなければ勝てたとか、つい人のせいにして感情が波立ってしまいがちです。
マラソンは、自分一人でやったことに対して結果が出ます。練習も都合のいい時間に、好きなところを走れるし、それが魅力でした。
ところが始めてみると、最初は先輩たちにまったくついていけないんですよ。まず速度が違う。先輩たちに追いつきたいところから始まりました。
個別に必死で練習をして、やっと後ろからちょこちょこついていけるようになったんです。それが嬉しくて、また練習しましたね。
徐々にみんなとほぼ同じ速度で最後まで走れるようになると、また嬉しい。そのうち、勝ちたくなった。そんなふうに、段階を踏んでいきました。
だから最初から、世界で一番になりたい、なんて思ったわけじゃないんです。
ちょっと速くなった、あ、楽しい、面白い……その繰り返しで、一段ずつ段階を登っていった感じです。
マラソンを始めてしばらくは、バスケットと両方やっていました。やっぱりみんなとワイワイ一緒にやる時間が楽しかったから。
ところがマラソンを練習していた仲間が、2000年にシドニーのパラリンピックに出て、メダルを取ったのをテレビで観て、自分も世界を目指したい、
パラリンピックに行きたいと強く思ったんです。それからはマラソンに絞ると決めて、バスケットは完全にやめました。
そこから世界で一番を取れるようになるまでは、環境を作るという点が、一番苦しかったですね。結果を出すためには練習が必要です。
でも生活をしながら練習するのは、すごく難しい。生活のためにお金を稼ぐには、仕事をしなくてはいけません。
でも、2000年にパラリンピックをテレビで観てからは、お金よりも時間がほしいと思いました。
そこで正社員の仕事をパートタイマーにしてもらい、午後3時半まで仕事をします。
正社員は5時半が終業時間ですが、残業があって帰れないと、練習を始めるのが7時以降になります。
冬は寒いうえ、真っ暗なので、そのなかで練習をしようというモーチベーションまであげるのは難しいんですよね。それでは、結果につながらない。
ちょっとでも早くから練習することで、練習量も増えるし、結果につながります。
でも生活費は厳しくなります。満足に練習できたときは、お金がなくて遠征にいけないし、お金があるときは練習ができない。
ちゃんとしたサポートがあって、生活を確保したうえで練習もさせてもらう、という状況がベストです。しばらくは、そういう状況は作れなかったですね。
初めて大きな大会で勝ったのは、2002年のアジアの大会。そこで優勝したことで、スポーツ選手として少し認めてもらえるようになったんですよ。
すると、少しずつ「こうしたい」ということを聞いてもらえるチャンスが出てきたんです。なんとか生活安定し、練習時間も確保できるようになってきました。
2004年にパラリンピックアテネ大会で、個人ではダメでしたが、団体リレーでメダルをとることができて。
それから今の職場に変わり、競技と生活の両方が確保できるようになりました。

副島正純(そえじま まさずみ)
1970年、長崎県生まれ。シーズアスリート所属。94年、家事手伝い中の事故により脊髄を損傷。車椅子の生活となる。95年、11月、車椅子マラソンを始める。96年、初レースは「まなす車椅子マラソン大会」(札幌)ハーフマラソン3位。2005年から07年、JALホノルルマラソン3連続優勝。07年2月、東京マラソン優勝、4月にはボストンマラソン優勝(日本人初)、9月の世界陸上2位、9月のベルリンマラソン(ドイツ)では優勝(日本人初)という快挙。そのほかの大会でも優秀な成績をあげ、アスリートとして活躍しながら、講演活動も積極的に行っている。04年に福岡県民スポーツ栄誉賞、内閣総理大臣賞、厚生労働大臣賞を受賞している。今後の活躍が期待されている。
副島正純 オフィシャルサイト







