
大覚寺のある上嵯峨村では、享保六年(1721)に三八三軒のうち、一八七軒が旅籠屋であったという記録が残っているのですが、おそらくは洛西にある寺院への参詣や愛宕詣での人びとがここに足をとめたのであろうと思われます。
「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕山へは月参り」とうたわれ、人びとの愛宕山への信仰が、京都やそれ以外の地から「火迺要慎」の火難防除の護符を受けるために、愛宕講をかけて愛宕詣でへとこの上嵯峨の地に大勢の人の足を運ばせました。
明治二十年頃には、釈迦堂清涼寺の門前に五、六軒の旅籠屋が軒を連ねておりまして、その中の一軒に「きくや」がありました。そして明治三十年四月一日に、初代の古川金治郎は、この「きくや」を譲りうけまして商いをはじめ、その後増改築をして賑わっておりましたが、やがてだんだんと交通の便がよくなり、愛宕詣での泊り客が次第に減少していったのです。

そこで、初代金治郎は大正年間に入ると、身内の反対を押し切って南の嵐山の地へと移転することに意を決しました。
その最初の足がかりが、中ノ島公園内の茶屋でいまの松風閣の場所であり、住まいは山手の秀山閣のところにありました。いままでの「きくや」という屋号も、新しい移転先がちょうど渡月橋の畔なので、「渡月亭」と改めました。そのとき、二代目の英一は十三歳でした。それから間もなく、碧川閣のところにも館を建ててその地歩を固めていったのです。
その後、幾星霜を経て、次々と改築や新築を重ねながら、現在の碧川閣、秀山閣、松風閣へ姿を整えてまいったのでございます。